- コルシカ王国(1736年)は、18世紀に地中海のコルシカ島に、ごく短期間だけ存在した幻の王国です。当時コルシカ島を支配していたジェノヴァ共和国に対する、コルシカ人の独立運動の中で生まれました。
- この王国の国王に選ばれたのは、なんとドイツ(ヴェストファーレン)出身の貴族で、ヨーロッパ中を渡り歩いた冒険家、テオドール・フォン・ノイホフでした。彼はコルシカ独立を支援すると約束し、島民から熱狂的に迎えられました。
- 1736年の今日、4月15日、テオドールは「コルシカ王テオドーロ1世」として戴冠しました。この時、国民の権利を保障し、王権を制限する立憲君主制の憲法が制定されたことは、当時としては非常に先進的でした。
- しかし、テオドールが約束した外国からの支援は実現せず、彼はわずか8ヶ月で島を離れざるを得なくなりました。王国は事実上崩壊し、テオドール自身もヨーロッパ各地を放浪した後、不遇のうちに亡くなりました。短命でしたが、コルシカ独立運動の歴史における象徴的な出来事として記憶されています。
今から300年近くも昔、1736年の今日、4月15日。地中海に浮かぶ風光明媚な島、コルシкаで、歴史上でも類を見ない、非常にユニークな出来事が起こりました。なんと、島民たちの熱烈な支持を受けて、一人のドイツ人貴族(しかも冒険家!)がコルシカ国王として戴冠したのです。彼の名は、テオドール・フォン・ノイホフ(Theodor von Neuhoff)、後のコルシカ王テオドーロ1世。
彼が打ち立てた「コルシカ王国」は、なぜ生まれ、どのような運命を辿り、そしてなぜ「幻の王国」と呼ばれるようになったのでしょうか? 自由を求める人々の願いと、一人の非凡な男の野望が交錯した、短くも劇的な物語を紐解いていきましょう。
支配への抵抗:コルシカ独立運動の高まり
コルシカ島といえば、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの出身地として有名ですが、18世紀当時、この島は長年にわたってイタリアのジェノヴァ共和国の支配下にありました。しかし、ジェノヴァによる統治はコルシカの人々にとって必ずしも幸福なものではなく、重い税金や様々な圧政に対する不満が、長い間くすぶり続けていました。
そして18世紀に入ると、その不満はついに限界に達します。1729年頃から、ジェノヴァの支配に対する大規模な武装蜂起、すなわちコルシカ独立運動(コルシカ独立戦争)が本格的に始まったのです。ルイジ・ジアフェリや、後のコルシカ独立の英雄パスカル・パオリの父親であるジャチント・パオリといった指導者たちのもと、コルシカの人々はジェノヴァからの解放と自由を求めて、勇猛果敢に戦いました。
しかし、相手は当時地中海で大きな力を持っていたジェノヴァ共和国です。島民だけの力で独立を勝ち取るのは容易ではありませんでした。独立運動の指導者たちは、戦いを続けるための武器や資金を外部から得る必要性を痛感していました。さらに、彼らは、独立した国家としての正統性を内外に示すため、そして求心力となる存在として、コルシカを統治する「君主」を戴くことを模索し始めていました。
救世主? それとも… 謎の冒険家テオドール登場
そんなコルシカの独立運動家たちの前に、まるで物語の登場人物のように現れたのが、テオドール・シュテファン・フォン・ノイホフ男爵(Freiherr Theodor Stephan von Neuhoff)という、ドイツ(ヴェストファーレン地方)出身の貴族でした。
テオドールは、その生涯を通じてヨーロッパ各地の宮廷を渡り歩き、フランス軍やスウェーデン軍に仕えたり、スペインで外交に関わったり(ヤコバイトの亡命宮廷とも関係があったとか)、様々な経験を積んだとされる、非常に謎めいた人物でした。弁舌巧みで、人を惹きつける魅力を持っていた一方で、詐欺師的な側面や、借金を踏み倒して追われる身であった、といったダーティーな噂も絶えませんでした。まさに「冒険家」と呼ぶにふさわしい、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物だったようです。
このテオドールが、ジェノヴァで、あるいはイタリアの他の都市で、亡命中のコルシカ独立指導者たちと運命的な出会いを果たします。彼は、自分にはヨーロッパ諸国の王侯貴族や有力者たちとの間に強力なコネクションがあり、コルシカの独立を成功させるために不可欠な武器、資金、そして諸外国からの外交的な承認を取り付けることができる、と彼らを情熱的に説得しました。そして、その見返りとして、独立した暁には、自分をコルシカの王として迎え入れてほしい、と大胆な提案を持ちかけたのです。
ジェノヴァからの解放を渇望し、外国からの支援を切実に求めていたコルシカの指導者たちの一部は、このテオドールの言葉に希望を見出し、彼の提案を受け入れることにしました。そして1736年3月12日、テオドールは少数の側近と、約束した規模には遠く及ばないものの、いくらかのマスケット銃や資金を携え、イギリス籍の船でコルシカ島東岸のアレリアに上陸しました。外国からの救世主の到来を待ちわびていたコルシカの民衆は、異国から来たこの堂々たる風貌の男爵を、熱狂をもって迎えたと言われています。
王の誕生と先進的な憲法(1736年4月15日)
コルシカ島に上陸したテオドールは、すぐに独立運動の主要な指導者たちと会談を重ね、自らが王位に就くことの最終的な合意を取り付けました。
そして、運命の日、1736年の今日、4月15日。コルシカ島中部のアレージヌ(Alesani)にある修道院(あるいはアレリア近郊とも)において、歴史的な式典が執り行われました。集まったコルシカの指導者層と民衆の代表たちは、テオドール・フォン・ノイホフを、満場一致で初代コルシカ国王として選出したのです。彼は「テオドーロ1世(Teodoro I)」として即位し、豪華な王冠がなかったため、コルシカの地に自生する月桂樹の葉(一説にはオークの葉)で作られた冠を、その頭上に戴きました。
特筆すべきは、この戴冠と同時に、「コルシカ王国憲法」が採択されたことです。この憲法は、
- 国王の権力は絶対的なものではなく、国民の代表からなる議会(Diète / Diet)によって制限される「立憲君主制」を採用する。
- 国民は広範な権利を保障される。
- 信教の自由を認める。
といった内容を含む、当時のヨーロッパの絶対王政が主流の時代においては、非常に先進的で民主的な性格を持つ憲法でした。これは、当時のヨーロッパで広まりつつあった啓蒙思想の影響を強く受けたものと考えられます。外国人の冒険家が、選挙によって王に選ばれ、近代的な立憲君主制の国を興したという事実は、18世紀ヨーロッパの歴史の中でも極めてユニークな出来事でした。
短すぎた治世と王の亡命
こうしてコルシカ国王テオドーロ1世となったテオドールは、早速、王国の体裁を整え、独立戦争を有利に進めようと動き出します。彼は、「解放勲章」といった独自の勲章や貴族の称号を創設し、独立運動に功績のあった指導者や、自らを支持する有力者たちに授与して、求心力を高めようとしました。また、王国の経済的基盤を確立するために、独自の貨幣を鋳造することも試みました。
軍事面では、国王自らがコルシカ兵を率いてジェノヴァ軍と戦い、いくつかの戦闘で勝利を収めるなど、一定の成果も上げました。
しかし、彼の治世は長くは続きませんでした。最大の理由は、彼がコルシカの人々に約束した、外国からの大規模な支援が一向に実現しなかったことです。彼がヨーロッパ各地に派遣した使者も、武器や資金、そして何よりも王国としての外交的な承認を得ることができませんでした。テオドール自身に、それだけの国際的な影響力や交渉力が実際にはなかったのか、あるいは彼が頼りにしていた国々がコルシカ問題への介入に消極的だったのか、理由は定かではありません。
期待していた援助が届かず、戦況も膠着状態に陥る中で、コルシカの指導者たちや民衆の間では、次第にテオドール王への失望と不信感が広がっていきました。「彼は口先だけのペテン師だったのではないか?」という疑念が囁かれ始め、彼の王としての権威は急速に失われていきました。ジェノヴァ共和国側も、テオドールの過去のスキャンダルなどを暴きたて、彼の信用を失墜させるための宣伝工作を盛んに行いました。
このような状況の中、テオドールは「ヨーロッパ本土に渡り、今度こそ約束の支援を取り付けて戻ってくる」という名目で、島を離れることを決意します。王として戴冠してから、わずか8ヶ月後の1736年11月、彼はコルシカ島を後にしました。これは事実上の亡命であり、彼がコルシカ王として島を統治した期間は、あまりにも短いものでした。
幻の王国の終焉と、その後のテオドール
テオドール王が島を去った後も、コルシカの人々は独立への意志を失わず、ジェノヴァに対する抵抗を続けました。しかし、国王不在となった「コルシカ王国」は、もはや国家としての実体を失い、運動は再び混乱状態に陥っていきました。
一方、ジェノヴァ共和国は、自力だけではコルシカの反乱を完全に鎮圧することが難しいと判断し、当時、地中海で影響力を強めていたフランス王国に軍事的な支援を要請します。フランスはこれに応じ、数度にわたって軍隊をコルシカに派遣しました。フランス軍の介入により、コルシカの独立運動は大きな打撃を受け、1740年頃には、テオドールが打ち立てた「王国」の時代の抵抗はほぼ終焉を迎えることになります。(しかし、コルシカ独立の火は完全に消えたわけではなく、十数年後の1755年には、パスカル・パオリという優れた指導者の下で、再び「コルシカ共和国」として独立を宣言することになります。)
では、コルシカを去った「元国王」テオドール・フォン・ノイホフはどうなったのでしょうか? 彼はその後も「コルシカ王テオドーロ1世」を自称し続け、アムステルダム、ウィーン、ヴェネツィア、ロンドンなど、ヨーロッパ各地を転々としながら、コルシカ解放のための資金援助や支援者を求めて奔走しました。彼は何度かコルシカ島への帰還を試みましたが、いずれも失敗に終わりました。
次第に支援者も離れていき、多額の借金を抱えた彼は、最終的にイギリス・ロンドンで、借金のために債務者監獄に投獄されるという不遇な状況に陥ります。晩年は、イギリスの政治家・作家であるホレス・ウォルポールなどのわずかな同情者に支えられながら、貧困のうちに過ごしました。そして1756年12月11日、ロンドンの安アパートの一室で、波乱に満ちた生涯を閉じました。彼はロンドンのソーホー地区にある聖アン教会の墓地に埋葬され、その墓碑には「コルシカの王テオドール、1756年12月11日没、享年66歳」といった内容が刻まれているそうです。
まとめ:歴史の一幕を飾った冒険王
1736年の今日、4月15日にコルシカ島で国王として戴冠したテオドーロ1世と、彼がほんのわずかな期間だけ率いた幻の「コルシカ王国」。それは、外国の支配からの解放を願うコルシカ島民の熱い思いと、一人の類まれなる(良くも悪くも)冒険家の野心と弁舌が、歴史の偶然の中で交差して生まれた、非常にユニークで興味深いエピソードでした。
特に、国民の代表によって王が選ばれ、王権を制限する立憲君主制の憲法が、18世紀半ばという早い時期に、ヨーロッパの辺境ともいえる島で制定されたという事実は、歴史的に見ても注目に値します。結果として王国は短命に終わりましたが、この出来事は、コルシカの人々の心の中に、独立国家としての意識と誇りを強く刻み込み、後のパスカル・パオリによるコルシカ共和国(これもまた先進的な憲法を持っていました)の樹立へと繋がる、重要な布石となったと言えるでしょう。
テオドール・フォン・ノイホフという人物に対する評価は、「コルシカ解放の英雄」から「口先だけの詐欺師」まで、様々に分かれるかもしれません。しかし、彼が18世紀ヨーロッパの歴史の一幕を、鮮やかに、そして波乱万丈に彩った「王冠を戴いた冒険家」であったことは間違いありません。今日という戴冠記念日に、地中海の美しい島で繰り広げられた、この少し風変わりで、どこか物悲しい王国の物語に、思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。
※本記事ではフランス語版も参考にしました




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