- ジェームズ・クック(1728年~1779年)は、18世紀に活躍したイギリスの海軍軍人であり、世界で最も有名な探検家の一人。「キャプテン・クック」の名で広く知られています。
- 彼は、イギリス海軍を率いて太平洋へ3回の大規模な探検航海を行い、その過程で、ニュージーランドの海岸線をほぼ一周して正確な地図を作り、ハワイ諸島をヨーロッパ人として初めて発見するなど、数多くの偉業を成し遂げました。
- 1770年の今日、4月29日には、ヨーロッパ人として初めてオーストラリア大陸の東海岸に上陸しました。これにより、オーストラリアの姿が初めて正確に世界に知られることになりました。
- クックはまた、長期航海における最大の敵であった壊血病(ビタミンC不足による病気)の予防に成功し、多くの船員の命を救ったことでも高く評価されています。
- 彼の探検は、太平洋の地理を劇的に解明し、「太平洋の地図を完成させた男」とも呼ばれますが、3回目の航海の途中、1779年にハワイで現地住民との争いの末に命を落としました。彼の航海は、ヨーロッパによる太平洋地域への進出のきっかけともなりました。
今から250年以上も昔、1770年の今日、4月29日。太平洋の南の海で、歴史を大きく動かす出来事がありました。イギリスの探検船エンデバー号を率いる船長、ジェームズ・クックが、ヨーロッパ人として初めて、未知の大陸(当時)であったオーストラリアの東海岸に降り立った日なのです。
「キャプテン・クック」の名で世界中に知られるこの人物は、まさに大航海時代の最後を飾る、最も偉大な探検家の一人でした。彼は、その生涯を通じて3度にもわたる大規模な太平洋探検航海を指揮し、それまで謎に包まれていた太平洋の姿を劇的に明らかにしたのです。
今日は、キャプテン・クックのオーストラリア初上陸という記念すべき日にちなんで、彼の成し遂げた偉大な功績と、波乱に満ちた冒険の物語を、簡潔にご紹介しましょう。
農家の息子から海軍士官、そして探検隊長へ
ジェームズ・クック(James Cook)は、1728年にイギリス北部のヨークシャー地方で、決して裕福ではない農家の息子として生まれました。当時のイギリスは階級社会であり、彼のような低い身分の出身者が、後に歴史に名を残すような偉業を成し遂げることは、極めて稀なことでした。
若い頃、クックは商船の船員として働き始め、そこで船乗りとしての基本的な技術と、海で生きる厳しさを学びました。転機が訪れたのは27歳の時。彼はイギリス海軍に志願して入隊します。当時、イギリスはフランスとの間で世界規模の戦争(七年戦争、北米ではフレンチ・インディアン戦争と呼ばれる)を戦っていました。クックはこの戦争中に、カナダのセントローレンス川流域などで、敵地の測量や非常に正確な海図(海の地図)を作成する能力を発揮し、上官たちの注目を集めます。単に船を操るだけでなく、科学的な知識と技術を航海に応用できる、類まれな才能を持っていたのです。
この海図作成能力と卓越した航海術が認められ、クックは、イギリスの科学アカデミーである王立協会と、海軍本部が共同で計画した、前例のない規模の太平洋探検航海の指揮官に、一介の水兵出身者としては異例の大抜擢を受けることになりました。
第1回太平洋探検:南方大陸を探して (1768-1771)
クックの最初の太平洋への大航海(1768年~1771年)は、エンデバー号という名の比較的小さな船(もとは石炭運搬船でした)で行われました。
表向きの目的は、南太平洋のタヒチ島へ行き、天文学的に非常に重要なイベントである「金星の太陽面通過」(金星が太陽の前を黒い点として通り過ぎる現象。これを異なる地点から観測することで、地球と太陽の距離をより正確に計算できると期待されていました)を観測することでした。
しかし、彼にはもう一つ、イギリス政府から与えられた極秘の任務がありました。それは、当時まだその存在が固く信じられていた、南半球にあるとされる巨大な未知の大陸「南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)」を発見し、それをイギリス領として宣言することでした。
クックは、南米大陸の南端ホーン岬を回り、無事に太平洋へ。タヒチ島で金星観測の任務を成功させます。その後、彼は未知の南方大陸を探して南へと進路をとりますが、発見には至りませんでした。
そこで彼は西へと針路を変え、ニュージーランドに到達します。クックは、約6ヶ月もの時間をかけて、この大きな二つの島(北島と南島)の海岸線をほぼ完全に一周し、驚くほど正確な海図を作成しました。これにより、ニュージーランドが大陸の一部ではなく、島であること、そして北島と南島が海峡(後にクック海峡と名付けられます)によって隔てられていることが、初めてヨーロッパに確実に知られることになったのです。
ニュージーランドを後にしたクックは、さらに西へと航海を続け、ついに未知の陸地を発見します。これがオーストラリア大陸の東海岸でした。そして1770年の今日、4月29日、彼は現在のシドニー近郊にある湾(彼は多くの新しい植物を発見したことからボタニー湾と名付けました)に、ヨーロッパ人として初めて上陸を果たしました。その後、彼はオーストラリア東海岸を約3,000キロメートルにわたって北上しながら、詳細な測量を行い、海図を作成しました。(この途中、グレートバリアリーフで船がサンゴ礁に乗り上げて座礁し、沈没寸前の危機に陥りましたが、乗組員たちの懸命な努力で乗り越えています。)そして、この広大な土地を「ニュー・サウス・ウェールズ」と命名し、イギリス国王の名において領有を宣言しました。
この最初の航海では、地理的な発見と並んで、もう一つ非常に重要な功績がありました。それは、壊血病の克服です。当時の長期航海では、新鮮な野菜や果物を摂れないことによるビタミンC不足から、多くの船員が壊血病にかかり、命を落としていました。クックは、ドイツのキャベツの塩・酢漬けであるザワークラウトや、麦芽汁、柑橘類などを船に積み込み、時には強制的に乗組員に食べさせることで、この恐ろしい病気による死者を、過去の航海と比べて劇的に減らすことに成功したのです。これは、後の長期航海の安全性を飛躍的に高める、画期的な成果でした。
第2回太平洋探検:南極圏へ、南方大陸の否定 (1772-1775)
最初の航海で大きな成果を上げたクックでしたが、「南方大陸」の謎はまだ完全には解けていませんでした。そこで彼は、さらに南、もっと高緯度の海域を徹底的に探索するため、2回目の太平洋探検(1772年~1775年)へと出発します。今度は、レゾリューション号とアドヴェンチャー号という2隻の船団での航海でした。
この航海で、クックは文字通り前人未到の領域へと挑みます。彼は何度も厚い氷に行く手を阻まれながらも、ついに人類史上初めて南極圏(南緯66度33分)のラインを越えて南へと進入しました。そして最終的には、南緯71度10分という、当時の世界最南端到達記録を打ち立てます。
彼は、3年間にわたって南太平洋の広大な海域を、まるで網の目を描くように徹底的に航行し、探索しましたが、ついに彼が探していたような巨大な「南方大陸」を発見することはできませんでした。この航海の結果、クックは「(もし存在するとしても、それは極寒の氷に閉ざされた南極大陸であり、人々が想像していたような豊かで広大な大陸は)南半球の高緯度には存在しない」と結論づけました。これにより、古代ギリシャ時代から信じられてきた「南方大陸伝説」に、事実上の終止符が打たれたのです。
この航海でも、クックはニュージーランドやタヒチなどを再訪したほか、イースター島、トンガ、ニューカレドニア、バヌアツといった多くの島々を訪れ、正確な位置を測定し、海図に記録していきました。そして、彼の徹底した船内衛生管理のおかげで、3年を超える長期航海であったにも関わらず、壊血病による死者は、わずか1名(しかも他の病気が原因だった可能性が高い)に抑えられました。これは、当時としては驚異的なことでした。
第3回太平洋探検:ハワイ発見と悲劇的な最期 (1776-1779)
2度にわたる太平洋探検で、南半球の地図をほぼ完成させたクック。彼に与えられた次の、そして最後の任務は、今度は北太平洋の探検でした。その最大の目的は、長年多くの探検家が探し求めてきた、大西洋と太平洋を北アメリカ大陸の北側で結ぶとされる伝説の航路、「北西航路」を発見することでした。
1776年、クックは再びレゾリューション号に乗り、ディスカバリー号を伴ってイギリスを出発しました。彼は喜望峰を回り、インド洋、タスマニア、ニュージーランド、そして前回も訪れた南太平洋の島々を経由して、赤道を越え、北太平洋へと進みました。
1778年1月、彼はヨーロッパ人にとって全く未知の、太平洋の真ん中に浮かぶ美しい島々を発見します。これが現在のハワイ諸島です。(彼は、当時のイギリス海軍大臣であったサンドイッチ伯爵の名誉を称え、これらの島々を「サンドイッチ諸島」と命名しました。)ハワイの先住民たちは、巨大な帆船で突然現れたクックたち一行を、当初は豊穣の神「ロノ」が再来したとして、非常に友好的に、そして敬意をもって迎え入れたと言われています。
ハワイで補給を行った後、クックは本来の目的である北西航路を探すため、北アメリカ大陸の西海岸へと向かいました。彼は現在のオレゴン州あたりからアラスカの海岸線までを北上し、詳細な測量を行いながら海図を作成していきました。そして、ベーリング海峡を通過し、北極海へと入りましたが、行く手は厚い流氷に阻まれ、残念ながら北西航路を発見することはできませんでした。
航路発見を断念したクックは、越冬と船の修理のため、再び南下し、1778年の末にハワイ諸島へと戻りました。しかし、二度目の訪問では、状況は一変していました。前回は神として崇められたクックたちでしたが、彼らがなかなか島を去らず、食料や物資を要求し続けることや、乗組員による盗難事件などが相次いだことから、ハワイ住民との間の関係は次第に緊張し、悪化していきました。文化や習慣の違いによる誤解も、対立を深める一因となったようです。
そして、運命の日、1779年2月14日。艦隊の小型ボート(カッター)がハワイ住民によって盗まれるという事件が発生します。これに激怒したクックは、事態を収拾し、盗まれたボートを取り返すための強硬手段として、ハワイ島南部のケアラケクア湾で、その地域の有力な首長を人質として捕らえようと試みました。
しかし、この行動は、集まっていた多数のハワイ住民たちの怒りを爆発させる結果となりました。浜辺でクックたちとハワイ住民との間で激しい乱闘が発生。混乱の中で、武器を持たずに(あるいはわずかな武器しか持たずに)上陸していたキャプテン・クックは、怒った住民たちの槍や棍棒によって襲われ、命を落としてしまったのです。享年50歳。太平洋を探検し続けた偉大な航海者の最期は、文化間の衝突が生んだ悲劇でした。
クックの死後、残された副官たちが指揮を引き継ぎ、艦隊はその後も航海を続け、最終的に1780年にイギリスへと帰還しました。
クックが遺したもの:太平洋の解明と功罪
ジェームズ・クックの3回にわたる太平洋探検航海は、世界の歴史と地理認識に計り知れないほど大きな影響を与えました。
太平洋の地図をほぼ完成させたこと
彼の航海によって、それまでヨーロッパ人にとって謎に包まれていた太平洋の広大な海域、そこに浮かぶ無数の島々、ニュージーランド、オーストラリア東岸、北米大陸西岸などの海岸線が、驚くほどの正確さで測量され、詳細な海図として記録されました。「太平洋の地図を完成させた男」という評価は、決して過言ではありません。また、南方大陸伝説に終止符を打ったことも大きな功績です。
科学的探検航海の確立
クックの航海は、単なる地理上の発見にとどまらず、科学的な調査を重視した点で、それまでの探検とは一線を画していました。彼は、天文学者、博物学者、画家などを同行させ、天体観測、動植物や鉱物の収集・記録、各地の民族や文化に関する詳細な記録といった、膨大な科学的データを持ち帰りました。また、正確な経度を知るためにクロノメーター(高精度な携帯時計)の有効性を実証し、そして何よりも壊血病の予防に成功したことは、その後の長期航海と科学的探検の発展に不可欠な基礎を築きました。
光と影(功罪)
クックの航海は、ヨーロッパ世界と太平洋の島々の人々との間の本格的な接触の始まりとなりました。しかし、それは同時に、その後のヨーロッパ列強による太平洋地域への進出、植民地化への道を開くものでもありました。彼らがもたらしたものは、新しい知識や物品だけでなく、時には未知の病気であり、文化や社会の破壊、資源の収奪といった、負の側面も伴っていました。クック自身の最期も、こうした異文化接触の難しさと悲劇を象徴しています。そのため、近年では、彼の偉大な功績を認めつつも、植民地主義の文脈の中でその役割を批判的に再評価する動きも強まっています。
まとめ:探求心と歴史の転換点
1770年の今日、4月29日に、オーストラリアの東海岸に歴史的な第一歩を記したジェームズ・クック。農家の息子から身を起こし、イギリス海軍の最高位(海軍大佐 / Captain)にまで登りつめ、3度の大航海で太平洋のほぼ全貌を解き明かし、そして最後はハワイの地で非業の最期を遂げた彼の生涯は、まさに冒険と発見、そして栄光と悲劇に彩られています。
彼の飽くなき探求心、卓越した航海術とリーダーシップ、そして科学的なアプローチは、世界の地理的知識を飛躍的に進歩させ、近代的な海洋探検の時代を切り開きました。しかし、その偉業が、同時に太平洋世界にとっては大きな変化と、時には苦難の時代の始まりともなったことも、私たちが記憶しておくべき歴史の複雑さです。
キャプテン・クックの物語は、未知なる世界への挑戦という人間の根源的な欲求と、それがもたらす光と影について、今もなお私たちに多くのことを語りかけているようです。
※本記事では英語版も参考にしました




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