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【4月21日】ブラジルの英雄、チラデンテスの命日:独立に捧げた生涯

今日は何の日?
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この記事のざっくりまとめ
  • チラデンテス(本名:ジョアキン・ジョゼ・ダ・シルヴァ・シャヴィエル)は、18世紀後半、ポルトガル植民地時代のブラジルで活動した、独立運動の先駆者です。「チラデンテス」とは「歯を抜く者」を意味する彼のあだ名で、歯科医の経験があったことに由来します。
  • 彼は、鉱業で栄えたミナス・ジェライス州で、ポルトガルの支配からの独立と共和制国家の樹立を目指す秘密結社「インコンフィデンシア・ミネイラ(ミナスの陰謀)」の中心人物として活動しました。
  • しかし、この独立計画は実行直前にメンバーの裏切りによって発覚し、関係者は逮捕されました。裁判において、チラデンテスは全ての責任を一身に負い、仲間を守ろうとしたと言われています。
  • その結果、彼はただ一人死刑判決を受け、1792年の今日、4月21日にリオデジャネイロで絞首刑に処せられました
  • 彼の死後、ブラジル独立と共和制への動きの中で、チラデンテスは国民的英雄、独立の殉教者として再評価されるようになりました。彼の命日である4月21日は、現在ブラジルの国民の祝日「チラデンテス記念日」となっています。

今日、4月21日は、南米の大国ブラジルでは国全体が休日となる、特別な日です。その名も「チラデンテス記念日(Tiradentes Day)」。この日は、ブラジルの自由と独立のために戦い、そしてその命を捧げた国民的英雄、チラデンテスを称え、記憶するために制定されました。

「チラデンテス」という少し変わった名前のこの人物は、一体どのような生涯を送り、なぜこれほどまでにブラジルの人々から敬愛されているのでしょうか? 彼が処刑された日である今日、その英雄的な、そして悲劇的な物語を紐解いていきましょう。

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「歯抜き屋」と呼ばれた男:チラデンテスの前半生

チラデンテス

「チラデンテス」としてブラジル史にその名を刻む彼の本名は、ジョアキン・ジョゼ・ダ・シルヴァ・シャヴィエル(Joaquim José da Silva Xavier)。彼は1746年、ポルトガルが広大な植民地を築いていたブラジルの南東部、豊かな鉱物資源、特に金やダイヤモンドの産地として知られていたミナス・ジェライス州(Minas Gerais、「 général な鉱山」の意)で生まれました。

チラデンテス(Tiradentes)」とは、ポルトガル語で「歯を抜く者」を意味するニックネームです。彼は生涯を通じて様々な職業を経験しましたが、その中に歯科医としての活動が含まれていたことから、このあだ名で呼ばれるようになったと言われています。(当時の歯科医は、現代のような高度な専門職ではなく、しばしば理容師などが兼ねていました。)

彼は比較的裕福な家庭に生まれたものの、幼い頃に両親を亡くし、孤児として育ちました。そのため、正規の高等教育を受ける機会には恵まれませんでしたが、非常に知的好奇心が強く、独学で様々な分野の知識を身につけたと伝えられています。彼は青年期から壮年期にかけて、商人、家畜の世話係、鉱山の技師(鉱脈を探したり、鉱山開発に関わる仕事)、そしてポルトガル植民地軍の竜騎兵隊(騎兵の一種)の少尉、さらには前述の歯科医など、多様な職業を転々としました。これらの幅広い経験を通じて、彼はブラジルの社会の実情や、人々が置かれている状況、そしてポルトガル本国による植民地支配の現実を、肌で感じることになります。

ポルトガル支配への不満と独立への目覚め

18世紀後半のブラジル、特にチラデンテスが生まれ育ったミナス・ジェライス州は、豊かな鉱物資源によってポルトガル本国に莫大な富をもたらす、植民地の中でも特に重要な地域でした。しかし、その富はポルトガルへと吸い上げられ、地元の人々は厳しい支配と搾取に苦しめられていました。

特に住民たちの不満の的となっていたのが、ポルトガル政府によって課せられる重い税金でした。中でも「デラマ(Derrama)」と呼ばれる制度は、極めて過酷なものでした。これは、金の年間産出量がポルトガル政府の定めた目標額に達しなかった場合、その不足分を、実際の産出量に関係なく、地域の住民全体から強制的に追加徴収するというものでした。豊作の年も不作の年もお構いなしに、一方的に富を奪われるこの制度は、人々の間にポルトガル支配への強い反感を植え付けました。

このような植民地の現実に直面する中で、様々な職業を通じてブラジルの大地と人々を知るチラデンテスは、次第に強い問題意識と、祖国ブラジルへの愛国心を抱くようになります。さらに、当時世界を駆け巡っていた新しい思想、すなわちアメリカ独立革命(1775-1783)の成功の報や、フランスを中心とする啓蒙思想(個人の自由、理性、平等、人民主権といった考え方)に触れることで、彼の思いは具体的な形を取り始めます。彼は、ポルトガルによる支配からブラジルを解放し、国王ではなく市民が主権を持つ独立した共和制国家を樹立するという、壮大な夢を抱くようになったのです。

ミナスの陰謀:独立への秘密計画

チラデンテスは、その熱い理想を行動に移すことを決意します。彼は、ミナス・ジェライス州の当時の州都であったヴィラ・リカ(Vila Rica、「豊かな町」の意。現在のオウロ・プレット市で、美しいバロック建築が立ち並ぶ世界遺産の街です)を拠点に、同じ志を持つ仲間たちを集め始めました。

彼の呼びかけに応じたのは、彼のような軍人や知識人だけでなく、裕福な鉱山主や大農場主、影響力のある聖職者、そしてトマス・アントニオ・ゴンザーガのような高名な詩人など、当時のミナス・ジェライス州における、教育を受け、社会的な地位もある白人エリート層(クリオーリョ)が多く含まれていました。彼らもまた、ポルトガルの重税や貿易の制限、そして本国からの政治的・経済的な支配に対して、強い不満を抱いていたのです。

チラデンテスを中心とする彼らは、秘密結社を結成し、ポルトガル支配を武力で打倒し、ミナス・ジェライス州から独立を宣言するための具体的な計画を練り上げました。この計画と、それに参加した人々の運動は、後に「インコンフィデンシア・ミネイラ(Inconfidência Mineira)」と呼ばれるようになります。「インコンフィデンシア」は「不忠」「裏切り」を意味する言葉ですが、ブラジルの歴史においては、ポルトガル王権に対する「(正義のための)不忠=独立運動」という肯定的な意味合いで使われます。日本語では「ミナスの陰謀」と訳されることが多いです。

彼らの計画は、ポルトガル総督が重税「デラマ」を施行する予定の日(1789年中と予測されていました)に合わせて、州都ヴィラ・リカで一斉に武装蜂起を起こし、独立を宣言。他の州にも独立を呼びかけ、最終的には当時のブラジル植民地の首都であったリオデジャネイロに進軍し、ブラジル全体を独立した共和国とする、というものでした。彼らは、新しい共和国の国旗のデザインまで考えていました。それは、白い背景に緑の三角形を描き、その周りにラテン語で「Libertas quae sera tamen(自由よ、遅れるとも必ず来る)」という、古代ローマの詩人ウェルギリウスの言葉から取った標語を記したものでした。(この三角形のデザインは、現在のミナス・ジェライス州の州旗に、色を変えて受け継がれています。)

裏切り、そして逮捕と裁判

独立への情熱と理想に燃え、周到に準備が進められたかに見えた「インコンフィデンシア・ミネイラ」の計画。しかし、その実行を目前にして、事態は思わぬ方向へと転落します。なんと、秘密結社のメンバーの一人であったジョアキン・シルヴェリオ・ドス・レイスという名の竜騎兵隊長が、自らがポルトガル政府に対して負っていた多額の借金を帳消しにしてもらうことと引き換えに、計画の全貌と参加者の名前を、ポルトガル総督府に密告してしまったのです。

この裏切りにより、1789年、武装蜂起の計画は完全に露見し、チラデンテスをはじめとする「インコンフィデンシア・ミネイラ」の主要な関係者たちは、次々とポルトガル当局によって逮捕されてしまいました。

逮捕されたメンバーたちは、首都リオデジャネイロへと送られ、国家に対する反逆罪(大逆罪)の容疑で、約3年間にわたる長い裁判にかけられることになります。厳しい取り調べや裁判の過程で、逮捕されたメンバーの多くは、自らの罪を少しでも軽くしようとしたり、責任を他のメンバー(特に既に死亡していたメンバーなど)になすりつけようとしたりしました。

しかし、その中でチラデンテスだけは、全く異なる態度を示したと言われています。彼は、拷問を受ける可能性もあったにも関わらず、自らがこの独立計画の中心的な役割を担っていたことを潔く認め、全ての責任は自分一人にある、と主張したのです。そして、法廷の場においても、ブラジルが独立し、共和制を樹立することの正当性と、ポルトガルによる植民地支配の不当性を、臆することなく堂々と訴え続けたと伝えられています。彼は、仲間たちを守るために、全ての罪を自ら引き受けようとしたのかもしれません。

ただ一人の死刑執行(1792年4月21日)

長い裁判の末、判決が下されました。チラデンテスを含む主要メンバー11名に、反逆罪として最も重い刑罰である死刑が宣告されました。

しかし、この判決がポルトガル本国の女王マリア1世(当時は精神疾患のため息子ジョアン王子が摂政を務めていました)に伝えられると、女王(あるいは摂政王子)の裁可により、一種の「温情」が示されることになります。死刑を宣告された11名のうち、チラデンテスを除く10名については、死刑を免除し、アフリカのポルトガル植民地(アンゴラやモザンビーク)などへの終身流刑(追放)へと減刑されたのです。

ただ一人、チラデンテスだけは、この減刑の対象から外されました。彼は、反乱計画における最も中心的な指導者であり、最も危険な思想を持つ扇動者であると、ポルトガル当局から見なされたのでしょう。彼に対する死刑判決は、覆されることはありませんでした。

そして、運命の日、1792年の今日、4月21日。チラデンテスは、リオデジャネイロ市内の広場(現在のチラデンテス広場)に設けられた処刑台へと引き出されました。多くの人々が見守る中、彼は絞首刑によって、その45年の生涯を閉じました。

ポルトガル当局による処置は、彼の死後もなお苛烈を極めました。彼の遺体は四つ裂きにされ、その首と体の一部は、他の者たちへの見せしめとして、彼が独立運動の中心として活動したミナス・ジェライス州へと続く街道沿いの、いくつかの町や村に晒されました。さらに、彼がヴィラ・リカに所有していた家は完全に取り壊され、その土地には二度と何も生えないように塩が撒かれた、と伝えられています。これは、反逆者に対して科される最も厳しい処罰と、その記憶を抹消しようとする意図を示すものでした。

英雄への復活:ブラジル独立の殉教者

処刑当時、チラデンテスはポルトガル王権に対する許されざる反逆者であり、彼の名前や行動は、人々が公に口にすることをためらうような、忌まわしいものでした。ポルトガル当局は、彼の記憶を完全に消し去ろうとしたのです。彼の存在は、歴史の闇に葬り去られるかに見えました。

しかし、歴史の流れは変わります。19世紀に入ると、ナポレオンのポルトガル侵攻(これによりポルトガル王室はブラジルへ避難しました)などをきっかけに、ブラジルでも本国ポルトガルからの独立を求める気運が急速に高まっていきました。そして1822年、ブラジルはポルトガル王子ドン・ペドロ(彼はブラジルに残り、初代皇帝ペドロ1世となりました)の下で、平和的に(ただし帝政として)独立を達成します。

ブラジルが独立国家となると、かつてポルトガル支配に果敢に抵抗し、独立の理想を掲げて命を落としたチラデンテスの行動が、愛国的で先駆的な行為として、少しずつ再評価されるようになっていきました。

そして、その評価が国民的なレベルで決定的なものとなったのが、1889年にブラジルで軍事クーデターによって帝政が打倒され、共和制が樹立された時でした。新たに誕生したブラジル共和国政府は、国民を一つにまとめ、新しい国家のアイデンティティを確立するための象徴となるような、共和制の理念のために戦った国民的英雄を強く必要としていました。その時、まさにうってつけの人物として白羽の矢が立ったのが、共和制樹立を目指した「インコンフィデンシア・ミネイラ」の中心人物であり、そのために命を捧げたチラデンテスだったのです。

これ以降、チラデンテスは急速に神格化され、ブラジルの自由と独立のために自己を犠牲にした殉教者、そして共和国の理想を体現する不滅の国民的英雄として、広く国民から敬愛される存在となっていきました。彼の肖像は、しばしば長い髪と髭をたくわえ、まるで受難者イエス・キリストのような姿で描かれるようになります(実際には、彼が軍人であったことから、当時は髭を剃っていた可能性が高いと言われています)。

そして、共和制樹立の翌年である1890年には、彼が処刑された日である4月21日が、正式に「チラデンテス記念日(Tiradentes Day)」として、ブラジルの国民の祝日に制定されました。今日に至るまで、ブラジル国民はこの日、国の独立と自由のために戦った英雄の功績を称え、その精神を受け継ぐことを誓うのです。彼の名を冠した都市や広場、道路はブラジル各地に存在し、彼の肖像はかつてブラジルの通貨(クルゼイロなど)の紙幣や硬貨のデザインにも採用されていました。

出典:wikimedia commons

まとめ:自由への意志は消えず

1792年の今日、4月21日に、反逆者として処刑されたチラデンテス。彼が夢見たブラジル独立共和国は、彼の生前に実現することはありませんでした。彼の試みは失敗に終わり、その死は悲惨なものでした。

しかし、ポルトガルの圧政に対して敢然と立ち上がり、自由と独立を求めた彼の強い意志、そして仲間たちを守るために全ての責任を負ったとされる自己犠牲の精神は、決して消え去ることはありませんでした。それは後の世代の人々の心を強く打ち、ブラジルが真の独立を勝ち取り、共和制国家を築き上げるための、大きな精神的な原動力となったのです。そして今日、彼はブラジルという国家の成り立ちとアイデンティティを象徴する、最も重要な国民的英雄の一人として、ブラジル国民の心の中に生き続けています。

チラデンテスの物語は、たとえその時には挫折し、敗れ去ったとしても、自由と尊厳を求める人間の精神は決して屈することなく、必ずや未来の希望へと繋がっていくことを、私たちに力強く教えてくれているのかもしれません。

※本記事では英語版も参考にしました

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