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【4月17日】内乱が生んだ皇帝:ウィテッリウス、ローマ皇帝承認の日

今日は何の日?
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この記事のざっくりまとめ
  • アウルス・ウィテッリウス(15年~69年)は、古代ローマ帝国の皇帝ですが、その在位期間は西暦69年の約8ヶ月間という非常に短いものでした。
  • 彼は、皇帝ネロの死後に勃発したローマ帝国内の大混乱期、いわゆる「四皇帝の年」に登場した3番目の皇帝です。ライン川流域のゲルマニア軍団によって皇帝に担ぎ上げられました。
  • ライバルであった皇帝オトが第一次ベドリアクムの戦いに敗れて自害した後、西暦69年の今日4月17日頃(または19日)、ウィテッリウスはローマの元老院によって正式な皇帝として承認されました。
  • しかし、古代ローマの歴史家たち(タキトゥスやスエトニウスなど)は、彼を政治に関心がなく、美食と贅沢な宴会に明け暮れた大食漢の怠惰な皇帝として、非常に厳しく評価しています。
  • 彼の権力は長続きせず、すぐに東方属州の軍団が司令官ウェスパシアヌスを新たな皇帝に擁立。ウィテッリウスは内戦に敗れ、69年の暮れにローマ市内で捕らえられ、民衆の前で無残に殺害されるという悲惨な最期を遂げました。

今から約2000年前のローマ帝国。暴君として知られる皇帝ネロが自害し(西暦68年)、帝国は後継者を巡る血で血を洗う内乱の時代へと突入します。わずか1年ほどの間に、ガルバ、オト、ウィテッリウス、そしてウェスパシアヌスと、4人もの人物が次々と皇帝として現れては消えていったこの年は、後に「四皇帝の年(Year of the Four Emperors)」として記憶されることになります。

今日、4月17日は、この激動の年に登場した3番目の皇帝、アウルス・ウィテッリウスが、ライバルの死を受けてローマ元老院から正式な皇帝として認められた(とされる)日です。ゲルマニアの軍団兵に担ぎ上げられて帝位に就きながら、贅沢三昧の末に無残な最期を遂げたと伝えられるこの皇帝は、一体どのような人物だったのでしょうか? ローマ内乱が生んだ束の間の支配者の生涯を追ってみましょう。

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名門出身、皇帝の側近からゲルマニア総督へ

アウルス・ウィテッリウス(Aulus Vitellius)は、西暦15年、ローマの名門貴族の家に生まれました。彼の父親であるルキウス・ウィテッリウスは、皇帝クラウディウスの治世下で執政官(コンスル、共和政ローマ時代の最高官職で、帝政期も名誉職として存続)を3度も務めるなど、帝政初期のローマにおいて非常に有力な政治家でした。

このような恵まれた家柄に生まれたウィテッリウスは、若い頃からローマの宮廷に出入りし、皇帝カリグラ、クラウディウス、そしてネロといった歴代の皇帝たちの側近として過ごす機会を得ました。特に若い頃は美貌だったとも言われ、皇帝たちの個人的な寵愛を受けていたと伝えられています。彼は順調にキャリアを重ね、アフリカ属州の総督や公共建築管理官などを歴任しました。しかしその一方で、若い頃から美食や賭博、贅沢を好み、放蕩な生活を送っていたという悪評も常に付きまとっていました。古代ローマの歴史家タキトゥスやスエトニウスなどは、彼を政治的な野心や能力に欠ける、享楽的な人物として記録しています。

西暦68年、悪政の限りを尽くした皇帝ネロが、元老院や軍隊に見放され、自殺に追い込まれると、ローマ帝国は一気に権力の空白と混乱状態に陥ります。ヒスパニア(スペイン)属州総督だったセルウィウス・スルピキウス・ガルバが新たな皇帝として元老院に承認されますが、彼の厳格で吝嗇(りんしょく、けち)な統治は、特に軍団兵たちの間で強い不満を引き起こしました。

この不穏な空気の中、新皇帝ガルバは、意外にもウィテッリウスを、帝国の重要な防衛線であるライン川下流域を守る低地ゲルマニア属州の総督(軍団司令官)という要職に任命します(68年末)。これは、ウィテッリウスには帝位を狙うような危険な野心はないだろうとガルバが見なしたため、あるいは、彼の父親がかつてゲルマニア軍団の兵士たちに人気があったことを利用しようとしたため、などと言われています。

軍団に担がれた皇帝

しかし、ガルバ帝の思惑は外れます。ゲルマニアに駐屯していたローマ軍団(ライン軍団)の兵士たちは、ガルバ帝がネロ打倒の際に約束した恩賞を十分に与えなかったことに、強い不満を募らせていました。彼らは、首都ローマから遠く離れた辺境で、厳しい任務に耐えている自分たちが不当に扱われていると感じていたのです。

この兵士たちの不満は、年が明けた西暦69年の1月2日、ついに爆発します。ケルン(コローニア・アグリッピネンシス)に駐屯していた低地ゲルマニア軍団が、ガルバ帝への忠誠を拒否し、自分たちの総督であるウィテッリウスを新たなローマ皇帝として宣言したのです。この動きはすぐに高地ゲルマニア軍団にも広がり、ライン川流域の強力な軍団全体がウィテッリウスを皇帝として担ぎ上げました。ウィテッリウス自身がこの反乱を主導したというよりは、不満を持つ軍団の兵士たちによって、ある意味「神輿(みこし)」として祭り上げられた、という側面が強かったようです。

皇帝として宣言されたウィテッリウスは、自らの帝位を確立するため、ローマへの進軍を決意します。ただし、彼自身は軍事的な経験や才能には乏しかったようで、後方に残り、実際の軍隊の指揮は、経験豊富な部下の将軍であるアウルス・カエキナ・アリエヌスとファビウス・ウァレンスに委ねました。二人の将軍に率いられたゲルマニア軍団は、アルプスを越えてイタリア本土へと進撃を開始しました。

ライバル・オトとの対決、そしてローマ皇帝へ(69年4月17日頃)

ウィテッリウス軍がイタリアに迫る中、首都ローマではさらに dramatic な政変が起こっていました。ウィテッリウスがゲルマニアで皇帝宣言をしたわずか2週間後の69年1月15日、皇帝ガルバは、かつてネロの側近であり、ポルトガル総督だったマルクス・サルウィウス・オトによって、ローマ市内で殺害されてしまったのです。そして、オトがガルバに代わって新たな皇帝として、元老院と近衛隊(プラエトリアニ)の支持を得て即位しました。

これにより、ローマ帝国にはウィテッリウスとオトという、二人の皇帝が同時に存在する異常事態となりました。どちらが真のローマ皇帝かを決する戦いは避けられません。北から進軍してくるウィテッリウス派のゲルマニア軍団と、オト帝を支持するイタリア本土の軍団(主に近衛隊と首都近郊の部隊)は、北イタリアのポー川流域で対峙することになります。

そして西暦69年4月14日、クレモナ市の近くにあるベドリアクム(またはベトリアクム)という場所で、両軍主力による決戦(第一次ベドリアクムの戦い)の火蓋が切られました。戦いは激戦となりましたが、数に勝り、また実戦経験も豊富なゲルマニア軍団を主力とするウィテッリウス軍が最終的に勝利を収めました。

敗北の知らせを受けたオト帝は、首都ローマで再起を図ることも可能でしたが、彼は意外な決断を下します。これ以上の内戦が続き、ローマ市民同士が血を流すことを避けるためと言われていますが、彼は潔く自害を選びました(4月16日)。わずか3ヶ月ほどの短い治世でした。

ライバルであったオトが自ら命を絶ったことで、ウィテッリウスのローマ皇帝としての地位は事実上確定しました。敗れたオト軍の兵士たちもウィテッリウスに降伏し、首都ローマの元老院も、オトの死を受けてウィテッリウスを正式なローマ皇帝として承認する決議を行いました。この元老院による承認がなされたのが、西暦69年の今日、4月17日、あるいはその数日後の4月19日頃のこととされています。こうして、ゲルマニアの軍団に担ぎ上げられたウィテッリウスは、ついにローマ帝国全体の支配者として認められることになったのです。

饗宴と怠惰? 短い治世の悪評

皇帝として承認されたウィテッリウスは、しばらくガリア(現在のフランス)などに滞在し、ゆっくりとローマへの帰還の途につきました。彼が首都ローマに入城したのは、69年の7月頃のことでした。しかし、彼が皇帝としてローマを統治した期間は、非常に短く、わずか8ヶ月ほどで終わりを迎えます。

そして、その短い治世に関する記録は、古代ローマの歴史家たち、特にタキトゥスやスエトニウスによって、極めて否定的に描かれています。彼らが伝えるウィテッリウス像は、国の政治や軍事にはほとんど関心を示さず、ただひたすら美食と贅沢な宴会に明け暮れた、怠惰で大食漢の、皇帝としての資質に欠ける人物というものです。

スエトニウスによれば、ウィテッリウスは一日に三度、時には四度も豪華な宴会を開き、その費用は莫大な額に上ったとされています。彼は食に対する異常な執着心を持ち、ローマ帝国の各地から、クジャクの脳、ウツボの肝、フラミンゴの舌といった、ありとあらゆる珍しい食材を取り寄せては、飽くことなく食べ続けた、と伝えられています。彼が特に好んだとされる、様々な高級食材を盛り合わせた巨大な銀の大皿料理は、「ミネルウァの盾」と呼ばれていた、という有名な逸話もあります。

国の重要な政務は、彼が信頼する解放奴隷や部下の将軍たちに任せきりで、彼自身はほとんど関与しようとしなかった、とも言われています。その結果、首都ローマや地方の統治は乱れ、彼を皇帝に押し上げたゲルマニア軍団の兵士たちの規律も緩みきり、横暴な振る舞いが目立ったとされています。

もちろん、これらの記述は、ウィテッリウスを打倒して次の安定した王朝(フラウィウス朝)を築いたウェスパシアヌス帝の治世下で書かれたものであるため、敗者であるウィテッリウスの悪評が、意図的に、あるいは誇張されて記されている可能性は十分にあります。彼なりに、騎士階級(エクィテス)出身者を官僚組織に登用するなど、いくつかの行政改革を試みたという記録も残っています。また、その気前の良さや、格式ばらない態度から、一部の兵士やローマの一般民衆には意外な人気があった、とも言われています。

しかし、彼の権力が、彼を擁立したゲルマニアの軍団という、帝国全体から見れば一部の軍隊の支持にしか基づいていなかったことは、彼の政権の根本的な弱点であり、その短い治世と悲劇的な最期を決定づける要因となりました。

ウェスパシアヌス登場、そしてウィテッリウスの最期

ウィテッリウスがローマで皇帝としての生活(あるいは饗宴)を始めて間もなく、帝国の東方から新たな挑戦者が現れます。当時、ユダヤ属州で起きていた大規模な反乱(第一次ユダヤ戦争)の鎮圧にあたっていたローマ軍の司令官、ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスが、彼自身の軍団によって新たな皇帝として擁立されたのです(69年7月1日)。

ウェスパシアヌスは、ネロ帝の下で軍功を重ねた叩き上げの軍人であり、その実直な人柄と能力は多くの軍団から支持を集めていました。エジプト、シリアといった東方の重要な属州と軍団が次々とウェスパシアヌス支持を表明し、さらにバルカン半島に駐屯していた強力なドナウ軍団も彼に味方しました。

ウェスパシアヌス自身は、当面エジプトに留まり、ローマへの穀物供給を止めることでウィテッリウス政権を揺さぶる戦略をとりましたが、彼の部下であるアントニウス・プリムスらに率いられたドナウ軍団は、アルプスを越えて驚くべきスピードでイタリアへと進軍を開始しました。

そして運命の皮肉か、両軍は再び、あのベドリアクムの地で激突することになります(第二次ベドリアクムの戦い、69年10月)。この戦いで、ウィテッリウスを支えていたゲルマニア軍団は、士気と勢いに勝るドナウ軍団の前に惨敗を喫してしまいました。

この敗北の知らせに、ウィテッリウスは完全に戦意を喪失し、退位して身の安全を図ろうと考えました。しかし、ローマ市内にいた彼自身の支持者たち(特に、彼によって地位や恩恵を得ていた者たち)や、最後まで彼に忠誠を誓う近衛隊(プラエトリアニ)の一部は、退位を認めず、抵抗を続けるように彼を押しとどめました。

しかし、もはや大勢は決していました。ウェスパシアヌス派の軍隊はローマへと迫り、ついに首都ローマ市内でもウィテッリウス派とウェスパシアヌス派の間で激しい市街戦が勃発しました。ウィテッリウス派の兵士や市民も最後まで抵抗しましたが、数で勝る敵軍の前に次々と打ち破られていきました。

西暦69年12月20日(または21日、22日とも)、ウィテッリウスは戦火の迫る皇帝宮殿から脱出し、市内の隠れ家に身を潜めようとしました。しかし、彼は間もなくウェスパシアヌス派の兵士たちによって発見され、捕らえられてしまいます。

ポール・ボードリー「ウィテッリウスの死」
出典:wikimedia commons

彼の最期は、ローマ皇帝の中でも最も悲惨なものの一つとして記録されています。彼は衣服を剥ぎ取られ、首に縄をかけられ、兵士たちによってローマ市民の前に引きずり出されました。人々は彼を嘲笑し、罵声を浴びせ、泥や汚物を投げつけました。そして、ローマの中心地であるフォルム・ロマヌム(公共広場)へと連行され、そこで激しい拷問の末に殺害されたのです。彼の遺体は鉤(かぎ)で引きずり回された後、無残にもティベリス川に投げ捨てられたと伝えられています。享年54歳。皇帝としての在位期間は、わずか8ヶ月でした。

まとめ:内乱が生んだ束の間の皇帝

西暦69年の今日、4月17日頃に、ローマ元老院によって正式な皇帝として承認されたアウルス・ウィテッリウス。しかし、彼の権力の座は、まさに束の間の夢に過ぎませんでした。彼の短い治世と悲惨な最期は、皇帝ネロの死後、ローマ帝国がいかに深刻な内乱と混乱に見舞われたか、そして皇帝の地位がいかに軍隊の力に左右される不安定なものであったかを、生々しく物語っています。

古代の歴史家たちによって、怠惰で大食いの「悪い皇帝」として酷評されがちなウィテッリウスですが、その評価は常に勝者の視点から書かれる歴史の常として、割り引いて考える必要もあるでしょう。彼もまた、ローマ帝国という巨大なシステムが揺れ動く激動の時代に翻弄された、一人の人間だったのかもしれません。今日という日に、ローマ帝国の「四皇帝の年」という混乱期に、ほんの短い間だけ帝位にあったこの人物の物語に、少し思いを巡らせてみるのも、歴史の奥深さを知る一つのきっかけになるかもしれません。

※本記事ではスペイン語版も参考にしました

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