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【5月2日】王妃から断頭台へ……アン・ブーリン逮捕、悲劇の始まりの日

今日は何の日?
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この記事のざっくりまとめ
  • アン・ブーリン(Anne Boleyn, 1501/07年頃~1536年)は、16世紀のイングランド国王ヘンリー8世の2番目の王妃であり、後の偉大な女王エリザベス1世の母親です。
  • 彼女の存在は、イングランドの歴史を大きく動かしました。ヘンリー8世は、最初の妻と離婚してアンと結婚するために、ローマ・カトリック教会と決別し、イングランド国教会を設立するという「イングランド宗教改革」を断行しました。アンがその直接的なきっかけとなったのです。
  • 1533年に王妃となったアンですが、国王が熱望した男子の世継ぎを産むことができず、複数回の流産の末に、次第に王の寵愛を失っていきました
  • そして、政敵たちの陰謀によって、姦通罪や反逆罪といった濡れ衣を着せられ、1536年の今日、5月2日に突然逮捕され、ロンドン塔に幽閉されてしまいました。
  • 形だけの不公正な裁判の後、彼女は死刑判決を受け、同年5月19日にロンドン塔内で斬首刑に処せられました。その劇的な生涯は、多くの歴史小説や映画、ドラマの題材となっています。

今から約500年も昔、1536年の今日、5月2日。イングランドの宮廷で、一つの劇的な事件が起こりました。国王ヘンリー8世の王妃であり、国を二分するほどの大きな宗教改革のきっかけともなった女性、アン・ブーリンが、突然、国家への反逆罪など複数の重罪容疑で逮捕され、ロンドン塔に投獄されたのです。

ほんの数年前までは国王の寵愛を一身に受け、イングランドで最も輝かしい地位にいたはずの彼女が、なぜ一転して断頭台へと送られる運命を辿ったのでしょうか? 彼女の逮捕記念日である今日、アン・ブーリンの波乱に満ちた生涯と、その悲劇的な結末を、簡潔に振り返ってみましょう。

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魅力的な宮廷女性、国王の心を射止める

アン・ブーリン

アン・ブーリン(Anne Boleyn)は、16世紀初頭(1501年頃または1507年頃)に、イングランドの有力な貴族であり外交官でもあったトマス・ブーリンの娘として生まれました。彼女は少女時代を、当時ヨーロッパ文化の中心の一つであったフランスの宮廷などで、王妃付きの侍女として過ごす機会に恵まれました。そこで彼女は、フランス語はもちろん、音楽、ダンス、洗練された会話術、そして最新のファッションセンスなどを身につけ、当時のイングランド貴族の女性としては、際立って知的で、国際的な魅力を持つ女性へと成長しました。

1522年頃、アンはイングランド宮廷に戻り、国王ヘンリー8世の最初の妻であったキャサリン・オブ・アラゴン王妃(彼女はスペイン王家の出身でした)に仕える侍女の一人となります。アンの、黒い瞳と黒髪が印象的な(当時のイングランドの美人の基準とは少し異なりましたが、それがかえって新鮮な魅力となりました)容貌、そしてフランス仕込みの才気煥発な受け答えや、優雅な立ち居振る舞いは、すぐに宮廷の人々の注目を集めました。そして、その魅力は、時の国王ヘンリー8世自身の心をも、強く捉えることになったのです。

当時、ヘンリー8世は大きな悩みを抱えていました。王妃キャサリンとの間には、メアリー(後の女王メアリー1世)という娘はいましたが、イングランド王位を安定して継承させるために不可欠と考えられていた男子の世継ぎが、どうしても生まれなかったのです。キャサリン王妃もすでに出産が期待できる年齢ではなくなっていました。そんな国王の前に現れたのが、若く、知的で、そして強い意志を感じさせるアン・ブーリンでした。

ヘンリー8世はアンに夢中になり、彼女を自分の愛人(ミストレス)にしようと、熱心に口説き始めました。(ちなみに、アンの姉であるメアリー・ブーリンも、以前ヘンリー8世の愛人であった時期がありました。)

しかし、アン・ブーリンは、単なる王の気まぐれな寵愛の対象となることをきっぱりと拒否した、と言われています。彼女には、それ以上の野心があったのかもしれません。あるいは、敬虔な信仰心や、姉の経験を見ていたことから、不安定な愛人の立場を嫌ったのかもしれません。理由は定かではありませんが、彼女は「愛人」ではなく、正式な「王妃」として国王に認められることを望んだのです。

このアンの予想外の「ノー」は、欲しいものは何でも手に入れてきた自信家の国王ヘンリー8世の征服欲をかえって刺激し、彼のアンへの執着と情熱を、異常なほどに燃え上がらせる結果となりました。

イングランドを揺るがす「王の大問題」と宗教改革

アン・ブーリンと正式に結婚し、彼女との間に正統な男子の世継ぎを儲けたい――その強い願望に取り憑かれたヘンリー8世は、前代未聞の、そしてイングランドの歴史を根底から揺るがすことになる行動を開始します。それは、20年以上も連れ添ってきた正妃キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚そのものを「無効」であったことにする、という試みでした。

カトリック教会の教義では、基本的に離婚は認められていませんでした。そこでヘンリーは、キャサリンが元々、自分の亡くなった兄アーサーの妻であったことを持ち出し、「聖書には兄の妻を娶(めと)ってはならないと書かれている。したがって、この結婚は神の法に反しており、そもそも無効であったのだ。だから世継ぎの男子が生まれないのだ」と主張し始めました。そして、この結婚の無効許可(事実上の離婚許可)を、ローマ教皇クレメンス7世に求めたのです。これは「王の大問題(King’s Great Matter)」と呼ばれ、ヨーロッパ中を巻き込む外交問題へと発展していきました。

しかし、ローマ教皇は、ヘンリー8世の願いを簡単に聞き入れるわけにはいきませんでした。なぜなら、王妃キャサリンは、当時のヨーロッパで最も強大な権力を持つ君主であった神聖ローマ皇帝カール5世(彼はスペイン王カルロス1世でもありました)の叔母にあたる、非常に高貴な女性だったからです。教皇は、カール5世の政治的・軍事的な影響力を恐れ、ヘンリーの要求に対する判断を先延ばしにし続けました。

何年にもわたるローマとの交渉が全く進展しないことに業を煮やしたヘンリー8世は、アン・ブーリン自身や、彼女と思想的に近い改革派の側近たち(例えば、トマス・クロムウェルやトマス・クランマーなど)の強い後押しもあり、ついにローマ・カトリック教会からの完全な離脱という、ヨーロッパ世界を震撼させる、極めて大胆な決断を下すに至ります。

1533年、ヘンリー8世は、自らが任命したカンタベリー大主教トマス・クランマーに、キャサリンとの結婚は無効であったと一方的に宣言させました。そして、すでに妊娠していたアン・ブーリンと秘密裏に(あるいは公然と)結婚したのです。

さらに翌1534年には、イングランド議会で「国王至上法(首長令 / Act of Supremacy)」を制定させました。これは、イングランド国王こそが、ローマ教皇ではなく、イングランド国教会(英国国教会 / Church of England)の唯一最高の首長(リーダー)である、と宣言する法律でした。これにより、イングランドの教会はローマ教皇の権威から完全に独立し、国王の管理下に置かれることになったのです。これが、「イングランド宗教改革」と呼ばれる、イギリス史における極めて重要な転換点の始まりでした。アン・ブーリンという一人の女性への、国王の個人的な情熱が、結果的に国家の宗教と政治のあり方を根底から変える、巨大な歴史のうねりを引き起こしたのです。

栄光と失意:王妃アン・ブーリン

1533年6月1日、アン・ブーリンはロンドンのウェストミンスター寺院で、きらびやかな戴冠式を経て、正式にイングランド王妃となりました。かつての王妃の侍女が、今やイングランドで最も高い地位にある女性となったのです。彼女の勝利は、目前に迫っているように見えました。

そして同年9月7日、彼女は最初の子供を出産します。国王ヘンリー8世も、そしてアン自身も、待望の男子、未来の国王の誕生を熱望していました。しかし、生まれてきたのは女の子でした。この娘こそが、皮肉なことに、後に父ヘンリー8世をも凌ぐ偉大な統治者としてイングランドの黄金時代を築き上げることになる、「エリザベス1世」です。しかし、この時のヘンリー8世の失望は大きかったと言われています。

王妃となったアンは、宮廷で大きな影響力を持つようになりました。彼女は知性と意志の強さを持ち、プロテスタント的な思想にも共感を寄せていたため、イングランド国教会の改革を後押しする役割も果たしました。しかし、その一方で、彼女の存在は多くの敵も作りました。彼女の気の強さ、上昇志向、そして時には傲慢とも取れる態度は、古くからの貴族たちの反感を買いがちでした。また、国民の間でも、離婚されて幽閉同然の生活を送っていた前王妃キャサリンへの同情が集まり、アンの人気は必ずしも高いものではありませんでした。

そして何よりも、アンにとって致命的だったのは、国王が何よりも望んでいた男子の世継ぎを、その後も産むことができなかったことです。彼女はその後、少なくとも二度、流産を経験したとされています。そのうちの一回は、男の子であったとも伝えられており、ヘンリー8世の失望と怒りは頂点に達したと言われています。王の心は、急速にアンから離れていきました。そして、王の視線はすでに、アンに仕える侍女の一人であった、物静かで従順なジェーン・シーモアという女性へと移り始めていたのです。

転落:逮捕、そしてロンドン塔へ(1536年5月2日)

国王の愛情という最大の盾を失い、宮廷内で孤立を深めていったアン・ブーリン。彼女の失脚を望む政敵たちが、ついに動き出します。その中心となったのは、皮肉にも、かつてアンと手を携えて宗教改革を推進した国王の首席顧問、トマス・クロムウェルでした。クロムウェルは、アンの存在が自らの政治的な立場を脅かすようになったと感じ、また、王の心変わりを敏感に察知して、アンを排除するための陰謀を企てたと考えられています。

そして、運命の日、1536年の今日、5月2日。アン・ブーリンは、グリニッジ宮殿で馬上槍試合を観覧していました。その最中に、彼女は突然、国王の命令によって逮捕されてしまいます。彼女にかけられた容疑は、信じられないほど衝撃的なものでした。それは、

  • 複数の男性(宮廷に仕える音楽家マーク・スミートン、王の寝室係のヘンリー・ノリス、同じく廷臣のウィリアム・ブレレトン、フランシス・ウェストン、そして驚くべきことに実の兄であるロシュフォール卿ジョージ・ブーリンまで!)と姦通(不倫関係)を重ねていた罪。
  • 実の兄との近親相姦の罪。
  • そして、これらの者たちと共に国王の死を企てたという、国家への反逆罪

これらの容疑は、現代の歴史家たちの間では、ほぼ間違いなく、アンを排除するために完全に捏造された、全く根拠のない濡れ衣であったと考えられています。しかし、当時のイングランドでは、国王の意向は絶対であり、一度疑いをかけられれば、無実を証明することは極めて困難でした。

アンは、何が起こったのか理解できないまま、王妃の身でありながら、ロンドンのテムズ川沿いに威圧的にそびえ立つ、ロンドン塔へと送られ、幽閉されてしまったのです。かつて彼女が王妃として戴冠式に向かうために船で通ったのと同じ川を、今度は囚人として塔へと送られるという、あまりにも皮肉な運命でした。

断頭台へ:悲劇的な最期

アン・ブーリンと、彼女と共に「共犯者」として告発された男性たちに対する裁判は、逮捕からわずか2週間ほどの間に、驚くほどのスピードで、そして極めて不公正な形で行われました。彼らが実際に罪を犯したことを示す客観的な証拠は、何一つ提示されませんでした。音楽家のマーク・スミートンだけが(おそらくは厳しい拷問によって)姦通を認めたとされていますが、アン自身も、彼女の兄ジョージも、他の廷臣たちも、全員が法廷で最後まで無実を潔く主張しました。

しかし、裁判の結果は、始まる前から決まっていたも同然でした。アンも、兄ジョージも、そして他の4人の男性も、全員が有罪とされ、死刑判決が下されました。

ヘンリー8世は、かつてあれほどまでに情熱を燃やし、国を揺るがすほどの行動まで起こして手に入れたはずのアンに対し、どのような思いを抱いていたのでしょうか。彼は、アンへの最後の「配慮」としてか、あるいは彼女の元王妃としての尊厳を守るためか、イングランドで通常行われていた、切れ味の悪い斧による斬首ではなく、より苦痛が少なく、一瞬で首を切り落とすことができるとされる、鋭利な剣を用いた斬首刑を執行するように、特別にフランスから熟練した剣の名手を呼び寄せました。

1536年5月19日の朝。アン・ブーリンは、ロンドン塔の敷地内にあるタワー・グリーンと呼ばれる、比較的人目につかない処刑場へと連れてこられました。伝えられるところによれば、彼女は死を前にしても少しも取り乱すことなく、非常に落ち着いた、そして威厳のある態度で臨んだと言われています。彼女は処刑台の上で短いスピーチを行い、自分は公正な裁判によって裁かれたと述べ(これは本心ではなかったかもしれませんが、残される娘エリザベスの立場を考えての発言だったとも言われます)、国王への忠誠を表明し、そして集まった人々に、自分の魂のために祈ってくれるよう頼みました。そして、首を差し出し、フランスから来た剣士が振り下ろした一閃の下、その短い、しかしイングランドの歴史を永遠に変えた劇的な生涯を終えたのです。享年は30代(生年が1501年か1507年かで、30歳前後または35歳前後となります)でした。

歴史に残した影響:エリザベス1世への道

アン・ブーリンが処刑されてから、わずか11日後。ヘンリー8世は、すでに心を寄せていたジェーン・シーモアと、3番目の結婚式を挙げました。(そしてジェーンは翌年、ヘンリーが待ち望んでいた王子エドワード《後のエドワード6世》を産みますが、その直後に産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいます。)

一方、アン・ブーリンが遺したたった一人の子供、娘のエリザベスは、母親が反逆者として処刑されたことにより、一時は「庶子(正式な王位継承権を持たない子供)」とされ、宮廷での立場も非常に不安定なものとなりました。しかし、彼女は持ち前の知性と忍耐力で、その後の異母兄エドワード6世、異母姉メアリー1世の治世という、宗教的にも政治的にも激動の時代を生き抜きます。

そして、メアリー1世が子供のないまま亡くなると、1558年、エリザベスはついにイングランド女王エリザベス1世として即位します。彼女の治世下で、イングランドはスペインの無敵艦隊を破り、シェイクスピアなどの文化が花開き、「黄金時代」と呼ばれる繁栄の時代を築き上げました。また、宗教面でも、母アン・ブーリンがその誕生のきっかけを作ったイングランド国教会の体制を確立し、カトリックとプロテスタントの間のバランスを取りながら、国家の安定を図りました。アン・ブーリンは、自らは悲劇的な最期を遂げましたが、その娘がイングランド史上最も偉大な女王の一人となったことで、ある意味、その名誉は回復されたと言えるかもしれません。

まとめ:歴史を動かした王妃の悲劇

1536年の今日、5月2日に逮捕され、そのわずか17日後に断頭台の露と消えた、イングランド王妃アン・ブーリン。彼女の生涯は、まるで激しい嵐のように、栄光の頂点から悲劇のどん底へと駆け抜けた、まさにドラマそのものでした。

一人の国王の心を捉えたことで、彼女は想像もしなかったであろう王妃の座にまで上り詰め、イングランドの宗教と政治のあり方を永遠に変えるほどの、歴史的な影響力を持つに至りました。しかし、その同じ国王の愛情が冷め、そして宮廷内の権力闘争の渦に巻き込まれた時、彼女はあまりにも脆く、そして非情な運命を辿ることになったのです。

アン・ブーリンという女性に対する評価は、今もなお歴史家や作家たちの間で様々です。「国を惑わせ、多くの血を流させた野心的な悪女」として描かれることもあれば、「王の気まぐれと男社会の陰謀によって、無実の罪で殺された悲劇のヒロイン」として同情を集めることもあります。あるいは、「自らの意志と知性で、旧い秩序に挑戦し、新しい時代を切り開こうとした、時代の先駆者」として再評価する声もあります。おそらく、その真実は、これらのどの側面も少しずつ含んでいる、複雑なものなのでしょう。

確かなことは、彼女のあまりにもドラマチックな人生が、その後何世紀にもわたって、数えきれないほどの歴史小説、戯曲(シェイクスピアも彼女を題材にした可能性があると言われています)、オペラ、映画、そしてテレビドラマとして繰り返し描かれ、世界中の人々を惹きつけてやまない、ということです。アン・ブーリンの物語は、愛と野心、権力と裏切り、信仰と陰謀、そして歴史の非情さといった、人間の持つ普遍的なテーマを、私たちに強く語りかけてくる、永遠の魅力を持っているのかもしれません。

※本記事では英語版も参考にしました

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