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【4月16日】世界最古の戦記!古代エジプト、メギドの戦いの日

今日は何の日?
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この記事のざっくりまとめ
  • メギドの戦いは、紀元前15世紀中頃(紀元前1457年説などが有力)に、古代エジプト新王国時代の偉大なファラオ、トトメス3世が、シリア・パレスチナ地方(カナン)の反乱諸侯連合軍と戦った、古代史における重要な戦いです。
  • 若きトトメス3世は、敵の裏をかく大胆な進軍路(狭い隘路)を選択し、紀元前1457年の今日、4月16日(有力な説の一つ)に行われたとされる会戦で、カナン連合軍に奇襲をかけて圧勝しました。
  • しかし、勝利したエジプト兵が戦利品の略奪に夢中になったため、敵の残存勢力はメギドの都市に籠城。戦いは約7ヶ月にわたる包囲戦の末、エジプトの最終的な勝利に終わりました。
  • この戦いは、エジプトのカルナック神殿の壁画にその詳細な経過が記録された、世界で最も古い戦いの一つとして非常に有名です。この勝利により、トトメス3世はエジプトの覇権を確立し、「エジプトのナポレオン」への道を歩み始めました。

今から約3500年も昔の今日、4月16日(紀元前1457年という説が有力です)。中東の地、メギド(現在のイスラエル北部)の平野で、古代世界の覇権を賭けた大きな戦いが行われました。後に「エジプトのナポレオン」とも称賛されることになる若きファラオ、トトメス3世が率いるエジプト新王国軍と、それに反旗を翻したカナン地方の都市国家連合軍との激突、「メギドの戦い」です。

この戦いは、単に古代の一戦闘というだけでなく、その詳細な記録が現代にまで伝わっているという点でも、歴史上非常に重要な意味を持っています。戦闘記録としては世界最古級とされるこの戦いは、どのように展開し、どのような結末を迎えたのでしょうか? 古代エジプトの栄光の時代へと旅してみましょう。

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若きファラオの挑戦:反乱鎮圧へ

物語の主役は、古代エジプト新王国時代(紀元前16世紀~紀元前11世紀頃)の黄金期を築いた第18王朝のファラオ、トトメス3世です。彼は幼くして王位を継ぎましたが、治世の初期は、共同統治者であり義母・叔母でもあったハトシェプスト女王(彼女自身もファラオとして君臨しました)が実権を握っていました。

トトメス3世

しかし、ハトシェプスト女王が亡くなると、これまでエジプトの影響下に甘んじていたシリア・パレスチナ地方(カナン地方)の諸侯たちが、エジプトの支配から脱却しようと動き始めます。北シリアの有力な都市国家カデシュの王をリーダーとして、多くの都市国家や部族が同盟を結び、当時エジプトと覇権を争っていたメソポタミア北部の強国ミタンニ王国の後ろ盾も得て、公然とエジプトに対する反乱を起こしたのです。

これに対し、若きファラオ、トトメス3世(当時おそらく20代)は、自身の統治能力とエジプト帝国の威信を示すため、この反乱を断固として鎮圧することを決意。即位後まもなく、自ら大軍を率いてシリア・パレスチナ地方へと、大規模な軍事遠征を開始しました。これは、彼が生涯にわたって繰り返すことになる数多くの遠征の、輝かしい第一歩となりました。

運命の選択:カルメル山の隘路を行く

トトメス3世率いるエジプト軍は、エジプト本土からシナイ半島を経由し、地中海沿岸の「海の道(ヴィア・マリス)」と呼ばれる交易路を北上しました。パレスチナ南部のガザを前進基地とし、さらに北へ進軍します。目標は、反乱軍の主力が集結しているという情報が入った、戦略上の最重要拠点メギドの都市でした。メギドは古来より交通の要衝であり、この地を制圧することは、カナン地方全体の支配権を握る上で決定的に重要でした。

しかし、メギドに至るには、目の前に立ちはだかるカルメル山脈を越えなければなりません。山脈を越えるルートは主に三つありました。南側と北側を通る、比較的安全で軍隊が通行しやすい二つの迂回路。そして、山脈の中央をまっすぐ貫く、非常に狭く、険しく、防御側にとっては待ち伏せに絶好の隘路(あいろ、狭い谷間の道。アロナ峠とも呼ばれます)です。

トトメス3世が軍議を開くと、経験豊富な将軍たちは皆、口を揃えて中央の隘路を進むことに強く反対しました。「陛下、この道はあまりにも危険です。道は狭く、馬も兵士も一列でしか進めません。もし敵が道の出口で待ち伏せていたら、我が軍は身動きが取れず、全滅する恐れがありますぞ!」と。

しかし、若きファラオの決断は、常識破りなものでした。彼は将軍たちの忠告を退け、こう宣言したと伝えられています。「敵も我々がこの危険な道を選ぶとは思うまい。臆病者は迂回路を行くがよい。余は自ら先頭に立ち、この中央の道を行く! 我に続く者だけついてこい!」 彼は、危険を冒してでも敵の意表を突くこと、そして迅速にメギドに到達することを選んだのです。これは、彼の軍事的才能と大胆さを示す、最初の重要な決断でした。

奇襲成功!メギド平野の決戦(紀元前1457年4月16日?)

一方、メギドに集結していたカデシュ王率いるカナン連合軍は、エジプト軍が当然、安全な南北どちらかの迂回路を通ってくると予想していました。彼らは軍を二手に分け、メギドの南北で待ち構えていました。まさか、中央の狭く危険な隘路から、エジプト軍本隊が出現するなどとは、全く想定していなかったのです。

トトメス3世の読みは的中しました。エジプト軍は、困難な行軍の末、隘路を無事に通過し、カルメル山脈を抜けてメギドの広大な平野へと姿を現しました。それは、油断しきっていた連合軍にとって、まさに青天の霹靂でした。

そして、紀元前1457年の今日、4月16日(これが戦いが行われた日として最も有力視されています)、メギド平野で両軍の主力が激突しました。エジプト軍の予期せぬ出現と、ファラオ自らが黄金に輝く戦車に乗って先陣を切って突撃する姿(カルナック神殿の記録による)に、カナン連合軍の士気は崩壊。組織的な抵抗もままならず、たちまちのうちに敗走を始めました。兵士たちは、近くにある堅固な城壁都市メギドへと、蜘蛛の子を散らすように逃げ込んでいったのです。

勝利の代償? 略奪と長期包囲戦

この時点で、エジプト軍は圧倒的な勝利を収めていました。もし敗走する敵兵を追撃し、混乱の中で開いていたメギドの城門から一気に市内へなだれ込んでいれば、その日のうちに反乱の首謀者たちを捕らえ、戦争を終結させることができたかもしれませんでした。

しかし、ここでエジプト兵たちは大きな誘惑に負けてしまいます。戦場には、敗走したカナン連合軍が置き去りにしていった、莫大な戦利品が散乱していました。金や銀で豪華に飾られた戦車、多数の馬や家畜、高価な武器や武具、そして敵の指揮官たちが使っていた豪華なテントなど…。勝利に酔いしれたエジプト兵たちは、敵を追うことよりも、これらの魅力的な戦利品の略奪に夢中になってしまったのです。

この略奪に時間を費やしている間に、メギドの城門は固く閉ざされ、反乱軍は籠城の態勢を整える時間を得てしまいました。これにより、戦いは短期決戦から、長期にわたるメギドの包囲戦へと移行することになります。トトメス3世は、メギドの都市を完全に包囲するための壁を築かせ、外部との連絡を遮断し、兵糧攻めを行いました。この包囲戦は、実に約7ヶ月もの長期間に及びました。最終的に、食料も尽き、援軍の望みも絶たれたメギド市内の反乱諸侯たちは、ついに降伏を受け入れ、トトメス3世の前に許しを乞うことになったのです。

戦いの記録:カルナック神殿の壁画

このメギドの戦いが、数ある古代の戦いの中でも特別な存在となっている最大の理由は、その経過が驚くほど詳細に記録され、現代にまで伝わっていることです。

トトメス3世は、この輝かしい初陣の勝利を永く後世に伝えるため、エジプトの首都テーベ(現在のルクソール)にあったカルナック神殿(古代エジプト最大の神殿複合体)の、アメン大神殿の壁面に、遠征の一部始終をヒエログリフ(聖刻文字)とレリーフ(浮き彫り)で刻ませました。

カルナック神殿の壁画

トトメス3世の年代記」と呼ばれるこの記録には、遠征の目的や準備の様子、進軍ルートを巡る軍議(あの隘路を進む決断の場面も!)とその選択理由、実際の戦闘の描写、そしてメギドの包囲戦の末に獲得した膨大な戦利品(馬2041頭、戦車924台、牛1929頭、羊2000頭、ヤギ20500頭、銅製の鎧200領、銀製の像…など具体的な数まで!)のリストや、降伏したカナン地方の119もの都市や諸侯の名前などが、克明に記録されています。

これほど具体的で体系的な戦闘に関する記述としては、世界史上最も古いものの一つとされており、古代エジプトの歴史、軍事戦略、社会、経済を知る上で、かけがえのない第一級の歴史資料となっています。

エジプトの覇権確立へ

メギドの戦いでの決定的勝利は、若きファラオ、トトメス3世の名声を一気に高め、彼の長い治世における輝かしい成功の始まりとなりました。

エジプトの覇権再確立

この勝利により、シリア・パレスチナ地方におけるエジプトの支配権は揺るぎないものとなり、反乱の動きは鎮圧されました。

「エジプトのナポレオン」へ

トトメス3世は、この成功体験を基に、その後も生涯にわたって17回(あるいはそれ以上)もの軍事遠征を精力的に行い、南はヌビア(現在のスーダン)、北はユーフラテス川まで、エジプトの領土と影響力を史上最大規模にまで拡大させました。その卓越した軍事的指導力と数々の勝利から、彼は後世の歴史家によって「エジプトのナポレオン」と称されることになります。

メギドの重要性

そして、戦いの舞台となったメギドは、この後も長く、エジプトと北方の諸勢力(ヒッタイト、アッシリア、バビロニア、ペルシアなど)が覇権を争う上での、戦略的な最重要拠点であり続け、幾度となく歴史の教科書に登場する戦いの舞台となりました。旧約聖書『ヨハネの黙示録』に記されている、世界の終末における最終決戦の地「ハルマゲドン」の名も、ヘブライ語で「メギドの丘」を意味する「ハル・メギド」がその語源であるとされています。

まとめ:記録に残る最古級の決戦

紀元前15世紀、おそらくは今日4月16日に行われたとされるメギドの戦い。それは、若き日のトトメス3世が、その軍事的才能と大胆な決断力によって、エジプト帝国の未来を切り開いた、まさに歴史的な戦いでした。

そして何よりも、その詳細な記録が、3500年近くもの時を超えて、巨大な神殿の壁から私たちに語りかけてくるという事実は、驚きと感動を与えてくれます。それは、人類が自らの行為とその意味を後世に伝えようとした、最も古い試みの一つなのです。

今日という日に、古代エジプトの偉大なファラオが繰り広げたこの決戦に思いを馳せ、カルナック神殿の壮大な壁画に刻まれた古代のドラマに、想像力を羽ばたかせてみるのはいかがでしょうか。そこには、リーダーシップ、戦略、人間の勝利への渇望、そして歴史を記録し伝えようとする意志といった、現代の私たちにも通じる普遍的なテーマが息づいているはずです。

※本記事ではドイツ語版も参考にしました

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