スポンサーリンク

【4月10日】世界を変えた大噴火:「夏のない年」を引き起こしたタンボラ山噴火の日

今日は何の日?
※写真はイメージです
スポンサーリンク
この記事のざっくりまとめ
  • 1815年にインドネシアのスンバワ島にあるタンボラ山で発生した大噴火は、人類の記録に残る中で史上最大級の火山噴火(火山爆発指数VEI 7)でした。
  • 1815年の今日、4月10日から11日にかけて、この噴火はクライマックスを迎え、凄まじい爆発と共に大量の火山灰や火砕流を噴出しました。
  • この噴火による直接的な被害(火砕流、津波、火山灰)とその後の飢饉・疫病により、周辺地域で推定7万人から12万人以上もの人々が亡くなりました山の高さも約1,500メートル低くなりました
  • さらに、噴火によって成層圏に放出された大量の火山性エアロゾルが太陽光を遮り、地球全体の気温が低下翌年の1816年は世界的に異常低温となり、「夏のない年」と呼ばれました。北半球を中心に深刻な凶作や飢饉が発生し、社会や文化にも大きな影響を与えました。

今から200年以上も前の今日、1815年4月10日。地球の裏側、遠く離れたインドネシアの島で起きた火山の大噴火が、その後の数年間にわたり、地球全体の気候を狂わせ、世界中の人々の運命に計り知れない影響を及ぼすことになるとは、当時、誰が想像できたでしょうか。

人類の歴史上、記録に残る中で最大規模とされるこの「タンボラ山大噴火」。それは、まさに地球の持つ破壊的なエネルギーを見せつけると同時に、一つの自然現象がいかに広範囲に、そして長期にわたって影響を及ぼしうるかを物語る、驚くべき出来事でした。噴火がその猛威のピークを迎えた今日という日に、この歴史的な大災害の記録を辿ってみましょう。

スポンサーリンク

地球の怒り:タンボラ山大噴火 (1815年)

噴火の舞台

タンボラ山(Mount Tambora)は、現在のインドネシア共和国、西ヌサ・トゥンガラ州に属するスンバワ島にある、当時は標高約4,300メートルを誇った活火山でした。(1815年当時はオランダ領東インドの一部)

噴火の始まりとクライマックス

1815年の4月5日頃から、タンボラ山は不穏な活動を見せ始め、噴煙を上げ、爆発音を轟かせるようになりました。そして、1815年の今日、4月10日の夜から翌11日にかけて、その活動は破局的なクライマックスを迎えます。複数回にわたる凄まじい大爆発が山全体を揺るがし、巨大な火柱(噴煙柱)は成層圏(高度43キロメートル以上)にまで達したと推定されています。その爆発音は、数千キロメートル離れた場所でも雷鳴のように聞こえた、という記録が残っているほどです。

観測史上最大級の規模 (VEI 7)

このタンボラ山の噴火は、火山噴火の規模を示す国際的な指標である火山爆発指数(VEI)において、最大級の「カテゴリー7」と評価されています。VEI 7は「超巨大噴火(ウルトラプリニアン噴火)」と呼ばれ、有史(人類が記録を残し始めて以降)においては、観測された中で最大規模の噴火でした。比較のために例を挙げると、1883年に同じくインドネシアで起こり甚大な被害を出したクラカタウ火山の噴火や、1991年にフィリピンで発生し20世紀最大級と言われたピナトゥボ山の噴火でさえ、VEI 6に分類されます。タンボラ噴火の規模がいかに桁違いであったかがわかります。

山が消えた?

この大噴火によって、タンボラ山の山頂部分は文字通り吹き飛び、巨大なカルデラ(直径約6キロメートル、深さ1キロメートル以上)が形成されました。その結果、山の標高は噴火前の約4,300メートルから、約2,850メートルへと、実に1,500メートル近くも低くなってしまったのです。

噴火による直接的な破壊と犠牲

タンボラ山が解き放ったエネルギーは、まずその周辺地域に壊滅的な被害をもたらしました。

死の灰と火砕流

高温の火山ガスと火山灰、軽石、岩片などが一体となって、時速数百キロメートルもの猛スピードで山肌を流れ下る「火砕流」は、タンボラ山の山麓にあったいくつもの王国や村々を、一瞬にして飲み込み、焼き尽くしました。当時スンバワ島に住んでいた約1万人の住民のほとんどが、この火砕流や火山弾などによって命を落としたと考えられています。

降り注ぐ火山灰

火山から噴き上げられた膨大な量の火山灰や軽石は、風に乗って広範囲に降り注ぎました。スンバワ島全土はもちろんのこと、隣のロンボク島、バリ島、さらには遠く離れたスラウェシ島、ボルネオ島、ジャワ島にまで達しました。数センチから、場所によっては1メートル以上も積もった火山灰は、田畑を埋め尽くして農作物を全滅させ、家屋を倒壊させ、飲料水を汚染しました。

津波の発生

噴火に伴う大規模な山体崩壊や、大量の火砕流が海に流れ込んだことにより、津波も発生しました。高さは最大で4メートル程度に達したと推定されており、周辺の島々の沿岸集落を襲い、さらなる犠牲者を出しました。

飢饉と疫病

噴火そのものによる直接的な死者だけでも甚大でしたが、被害はそれだけにとどまりませんでした。火山灰による農作物の壊滅的な被害は、その後、周辺地域に深刻な食糧不足と飢饉を引き起こしました。人々は食料を求めてさまよい、多くが餓死したと言われています。また、火山灰による水質汚染や、栄養失調による抵抗力の低下、衛生状態の悪化などから、下痢やチフスといった感染症(疫病)も蔓延しました。これらの間接的な影響による死者を含めると、タンボラ山噴火による総死者数は、最終的に7万1千人から、一説には12万人以上にのぼると推定されています。これは19世紀に起こった自然災害の中で、最も多くの犠牲者を出した事例の一つです。

地球を冷やした噴火:「夏のない年」(1816年)

タンボラ山噴火の影響は、インドネシア周辺地域だけに留まりませんでした。その影響は地球全体に及び、特に噴火の翌年である1816年の気候に劇的な変化をもたらしました。

成層圏への巨大な日傘

大噴火によって、膨大な量の二酸化硫黄(SO2)ガスが、高度40キロメートルを超える成層圏にまで一気に注入されました。成層圏に達した二酸化硫黄は、太陽光などとの化学反応によって、硫酸エアロゾルと呼ばれる非常に細かい硫酸の粒子へと変化します。この微粒子が成層圏全体に広がり、数年間にわたって滞留し、まるで地球全体を覆う薄いベール(巨大な日傘)のようになりました。

太陽光の遮断と寒冷化

この硫酸エアロゾルの層が、地上に降り注ぐ太陽光を吸収したり、宇宙空間に反射したりしたため、地球全体の平均気温が目に見えて低下しました。これが「火山性寒冷化」と呼ばれる現象です。

「夏のない年」

特に1816年は、この影響が顕著に現れ、北半球の多くの地域で異常な低温、長期間にわたる冷たい雨、日照不足、そして季節外れの霜や雪に見舞われました。この年は「夏のない年(Year Without a Summer)」として、歴史に記憶されることになります。

ヨーロッパ
春から夏にかけて異常な低温と悪天候が続き、農作物は壊滅的な不作となりました。特にスイス、ドイツ南部、アイルランドなどでは深刻な飢饉が発生し、食料価格が高騰。食料を求める暴動が起きたり、栄養不足からチフスなどの疫病が流行したりと、社会不安が増大しました。当時、ヨーロッパはようやくナポレオン戦争の混乱から立ち直ろうとしていた時期であり、この異常気象はさらなる追い打ちとなりました。文学史的には、この陰鬱な夏にスイスのレマン湖畔で過ごしていたイギリスの詩人バイロンや作家のメアリー・シェリーらが、悪天候で屋内に閉じ込められたことがきっかけで怪奇談を語り合い、メアリーが後のゴシック小説の傑作『フランケンシュタイン』の着想を得た、という有名なエピソードも残っています。

北アメリカ
アメリカ北東部のニューイングランド地方やカナダ東部では、夏であるはずの6月、7月、8月にも霜が降り、湖が凍り、雪が降るという信じられないような異常気態が記録されました。「1816年凍死の年(Eighteen Hundred and Froze to Death)」とも呼ばれ、主要作物であったトウモロコシなどが壊滅的な被害を受けました。この不作と食糧難が、多くの人々がより温暖で肥沃な土地を求めて、当時まだ未開拓だったアメリカ中西部へと移住していく流れ(西部開拓)を加速させる一因になったとも言われています。

アジア
この寒冷化の影響はアジアにも及んだと考えられており、中国の雲南地方での深刻な飢饉(米が全く収穫できなかった年があったとされる)や、インドでのモンスーン(季節風)のパターンの変化、それに伴うコレラの流行拡大との関連性も指摘されています。

歴史と科学に残した教訓

1815年のタンボラ山大噴火は、人類が経験し、記録に残した中で、まぎれもなく最大級の火山災害でした。そして、その影響が地域的な範囲にとどまらず、地球全体の気候システムにまで及んだことが科学的に裏付けられた、最初の重要な事例の一つとなりました。

火山と気候変動

この噴火は、巨大な火山噴火が地球の気候を寒冷化させるメカニズム(成層圏に注入された硫酸エアロゾルが太陽光を遮断する効果)を理解する上で、極めて貴重なデータを提供してくれました。現代の気候モデルの研究や、将来起こりうる巨大噴火の影響予測、さらには地球温暖化対策としての「太陽放射管理(ジオエンジニアリング)」の議論などにおいても、タンボラ噴火の事例は重要な参照点となっています。

連鎖する災害の影響

また、この出来事は、一つの大規模な自然災害が、いかに食糧危機、飢饉、疫病の蔓延、社会不安、人々の移住、そして文化や芸術の創造(『フランケンシュタイン』のように)にまで、広範で連鎖的な影響を及ぼしうるかを、私たちに具体的に示しています。

科学的解明

噴火当時は、遠く離れたヨーロッパや北米で起こっている異常気象の原因が、インドネシアの火山噴火にあるとは、ほとんど誰も考えていませんでした。しかし、後年の地質学、火山学、気象学、歴史学などの様々な分野の研究者たちの努力によって、噴火とその後の地球規模の影響との間の詳細な因果関係が明らかにされてきました。

まとめ:地球の鼓動と歴史の転換点

1815年の今日、4月10日にクライマックスを迎えたタンボラ山の大噴火。それは、地球内部に秘められた immense なエネルギーと、自然が時に見せる恐るべき猛威を、人類にまざまざと見せつけた瞬間でした。そして、その噴火が空高く噴き上げた微粒子は、地球の気候を一時的に変え、「夏のない年」という未曽有の事態を引き起こし、世界中の人々の生活、社会、そして歴史の針路にまで、静かに、しかし確実に影響を与えたのです。

タンボラ山の噴火とその後の物語は、私たちが生きるこの地球という惑星が、常に活動し、変化し続けているダイナミックな存在であること、そして人類の歴史がいかに自然現象と密接に結びついているかを、改めて教えてくれます。今日という日に、200年以上前のこの巨大噴火と、それがもたらした世界への影響に、少し思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。

※本記事では英語版も参考にしました

created by Rinker
日経BP 日本経済新聞出版本部

コメント

スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました