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【5月7日】北方領土問題の原点? 樺太・千島交換条約が結ばれた日 ~日・英・露の視点から~

今日は何の日?
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この記事のざっくりまとめ
  • 樺太・千島交換条約」は、1875年(明治8年)の今日、5月7日に、日本とロシア帝国との間で結ばれた、国境線を確定させるための重要な条約です。
  • この条約で、当時、日本人とロシア人が混在して住んでいた樺太(サハリン)全島をロシアの領土とすることを日本が認める代わりに、当時ロシア領だった千島列島を日本の領土とする、という「交換」が行われました。
  • しかし、この条約で交換対象となった「千島列島」とは、具体的にどの範囲の島々を指すのかという解釈が、後の北方領土問題の大きな原因の一つとなっています。
  • 日本側は「交換したのはウルップ島より北の18島であり、北方四島(択捉・国後・色丹・歯舞)は含まれない(元々日本の領土)」と主張しています。
  • ロシア側は「千島列島全体(南クリル=北方四島も含む)を指す」と解釈、あるいは「第二次世界大戦の結果として全ての島がロシア領になった」と主張しています。
  • この歴史認識の違いは、各国の歴史記述(Wikipediaの記述など)にも影響を与えています。この条約は、日露関係と国境問題の複雑な歴史を理解する上で、欠かせない出来事です。

今日、5月7日は、日本の近代史、そして今なお解決を見ていない「北方領土問題」を考える上で、決して避けては通れない、ある重要な条約が結ばれた日です。それは、1875年(明治8年)に、当時の大日本帝国ロシア帝国との間で締結された「樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)」です。

この条約は、当時両国の間で曖昧だった北方の国境線を平和的に確定させようとしたものでした。しかし、その条文の解釈、特に「千島列島」という言葉が指し示す範囲をめぐって、後世に大きな議論と対立を生むことになります。

今回は、この樺太・千島交換条約がどのような背景で結ばれ、どのような内容だったのかを振り返るとともに、この条約に対する日本、ロシア、そして英語圏での視点の違いにも少し触れてみたいと思います。

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条約締結の背景:あいまいだった北の国境

19世紀半ば、江戸時代末期から明治維新を経て近代国家への道を歩み始めた日本と、東へ南へと領土拡大を進める巨大なロシア帝国は、その勢力圏が接する北方の島々、すなわち樺太(からふと、現在のサハリン)と千島列島(ちしまれっとう、ロシア名:クリル列島)の領有権を巡って、長年複雑な関係にありました。

樺太(サハリン)の問題

1855年に日本(江戸幕府)とロシア帝国との間で結ばれた最初の日露間の条約である「日露和親条約(下田条約)」では、千島列島の国境は定められたものの、広大な樺太については国境を画定することができませんでした。その結果、樺太は、日本人とロシア人の両方が居住し、活動する「雑居地」という、非常に不安定な状態に置かれることになりました。その後、ロシア側は軍事施設を建設するなど、島の実効支配を着々と進め、一方、日本(明治政府)も開拓使を派遣するなどして対抗しようとしましたが、両国民の間での紛争やトラブルが絶えず、国境を明確に定めることが急務となっていました。

千島列島の問題

一方、同じ1855年の日露和親条約で、千島列島については国境線が明確に定められていました。それは、現在の北方領土問題で議論の中心となっている択捉(えとろふ)島と、そのすぐ北にある得撫(うるっぷ)島との間の海峡を国境とする、というものでした。これにより、

  • 択捉島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島(いわゆる北方四島)は日本領
  • 得撫島からカムチャツカ半島に至るまでの、それより北にある千島列島ロシア領

と、両国間で合意されていたのです。

明治維新を迎え、近代的な国家体制の確立と、欧米列強との対等な関係構築を目指していた日本政府にとって、隣国ロシアとの間で懸案となっていた樺太の国境問題を解決し、北方の安全を確保することは、外交上の最重要課題の一つでした。

樺太・千島交換条約の内容 (1875年5月7日)

日本政府は、この問題の解決のため、榎本武揚(えのもとたけあき、幕末の五稜郭での戦いで知られますが、明治政府では外交官として活躍しました)を駐ロシア特命全権公使として派遣し、ロシア帝国政府(代表は外務大臣アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵)との間で粘り強い交渉を行いました。

そして、1875年(明治8年)の今日、5月7日、ロシアの首都サンクトペテルブルクにおいて、両国間でついに「樺太千島交換条約」が調印されました。

その主な内容は、以下の二つの「交換」でした。(以下は内容を簡潔にまとめたものです)

【樺太について(第一款)】
日本は、樺太島(サハリン島)において持っている(あるいは主張しうる)全ての権利を完全に放棄し、これにより樺太全島がロシア帝国の領土であることを確認する。

【千島について(第二款)】
上記の代償として、ロシア帝国は、現在ロシアが領有している千島列島(クリル列島)の島々全てを日本に譲り渡し、これにより千島列島全体(カムチャツカ半島との境界までの全ての島々)が日本帝国の領土となることを確認する。

条約の第2条では、交換の対象となる「千島列島」として、具体的に得撫(ウルップ)島から、最も北にある占守(シュムシュ)島までの合計18の島の名前が列挙されていました。

この他にも、条約には、それぞれの島に住んでいる住民が、そのまま住み続けるか、あるいは自国へ引き揚げるかを選択する権利や、彼らの財産権、宗教の自由、そして一定期間の漁業権の保障、両国船舶の港への寄港権などに関する、細かい取り決めも含まれていました。

この条約によって、長年の懸案であった樺太の帰属問題は(一時的に)解決し、北は千島列島の最北端とカムチャツカ半島の間の海峡、南は宗谷海峡(北海道と樺太の間)に至るまでの、日露間の国境線が、外交交渉によって平和的に画定されたかに見えました。

条約の解釈:各言語版Wikipediaから見える視点の違い

千島列島の日露境界(実効支配を含む)の推移

しかし、歴史の皮肉というべきか、この平和的な国境画定条約が、後の時代、特に第二次世界大戦後に、新たな、そしてより深刻な領土問題(北方領土問題)の火種となるのです。その最大の原因は、条約第2条で日本に譲渡された「千島列島(クリル列島)」という言葉が、具体的にどの範囲の島々を指しているのか、という解釈の違いにありました。

この解釈の違いは、それぞれの国の立場や歴史認識を反映しており、各言語版のWikipediaの記述にも、そのニュアンスの違いとして現れている可能性があります。少し比較しながら見てみましょう。(※これはあくまで一般的な傾向であり、Wikipediaの内容は常に更新されるため、実際の記述とは異なる場合があります。)

日本語版Wikipediaの視点

日本の政府が一貫して主張している立場は、

1875年の交換条約で日本がロシアから譲り受けた『千島列島』とは、1855年の日露和親条約で明確にロシア領と定められていた、得撫(ウルップ)島から占守(シュムシュ)島までの18島のことである

というものです。したがって、

択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島(いわゆる北方四島)は、1855年の条約で既に日本領と確定しており、1875年の交換条約で対象となった『千島列島』には元々含まれていない。よって、北方四島は歴史的に見ても、国際法的に見ても、日本の固有の領土である

という主張が、日本語版Wikipediaの記述の基調となっていると考えられます。条約第二款で交換対象として18島の名前が具体的に列挙されている点も、この解釈を補強するものとして重視されるでしょう。

ロシア語版Wikipediaの視点

一方、ロシア(および旧ソ連)の立場は異なります。ロシア語版Wikipediaでは、

1875年の条約で、ロシアはクリル列島全体(вся гряда Курильских островов / 全てのクリル列島の連なり)を日本に譲渡した

という記述が中心となる可能性が高いです。そして、地理的な観点から、「クリル列島」という言葉には、当然、その南端に連なる南クリル(=北方四島)も含まれる、という認識が前提となっている場合が多いと考えられます。

条約で18島が列挙されている点については、あまり強調されないか、あるいはそれが必ずしも全範囲を示すものではない、といった解釈が示されるかもしれません。

さらに重要なのは、ロシア側の主張の根幹は、1875年の条約そのものよりも、第二次世界大戦の結果に置かれている点です。

ヤルタ協定(米英ソ首脳間の秘密協定)やポツダム宣言(日本の降伏条件)に基づき、またサンフランシスコ平和条約(日本が千島列島を放棄した条約、ただしソ連は不署名)によって、千島列島全体の領有権は、第二次大戦の正当な結果としてソ連(ロシア)に移ったのだ

という主張が、北方領土問題に関する記述の中心となるでしょう。

英語版Wikipediaの視点

英語という国際的な言語で書かれる英語版Wikipediaでは、通常、特定の国の立場に偏ることを避け、より客観的で中立的な記述を心がける傾向があります。

樺太・千島交換条約については、その内容(樺太全島がロシア領、千島列島が日本領となったこと)を客観的に記しつつ、この条約で使われた「千島列島(Kuril Islands)」という言葉が、具体的にどの島々を指すのか(特に、南部の四島を含むのかどうか)が、後の北方領土問題(Kuril Islands dispute)における核心的な論争点となっていることを、明確に指摘するでしょう。

条約で具体的に名前が挙げられた18島(Urup から Shumshu まで)についても言及し、それが日本側の「四島は含まれない」という主張の根拠の一つであることを示しつつ、ロシア側の「第二次大戦の結果、全千島がロシア領となった」という主張も併記し、両者の立場をバランス良く紹介しようとする構成になっていると考えられます。

条約から領土問題へ:現代への繋がり

1875年の樺太・千島交換条約によって一度は画定された日露間の国境線ですが、その後の20世紀の激動の歴史の中で、再び大きく揺れ動くことになります。

  • 日露戦争(1904年~1905年)とその結果結ばれたポーツマス条約(1905年)により、日本は敗北したロシアから南樺太(北緯50度以南)を割譲されました。
  • しかし、第二次世界大戦末期の1945年8月、ソビエト連邦は、当時まだ有効であった日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告。満州(中国東北部)や朝鮮半島北部に侵攻するとともに、日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後も、千島列島への侵攻を続け、最終的に北方四島を含む千島列島全域と、南樺太を占領しました。
  • 戦後、1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約で、日本は「千島列島」及び南樺太に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄すると定められました。しかし、ソ連(ロシア)はこの条約に署名していません。そして、日本政府は、この条約で放棄した「千島列島」には、固有の領土である北方四島は含まれていない、という立場を一貫して取り続けています。
  • 1956年には、日ソ共同宣言が出され、両国間の国交は回復しました。この宣言では、平和条約が締結された後には、ソ連は歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すことに同意すると明記されました。しかし、国後島と択捉島の帰属問題は解決されず、結局、現在に至るまで日露間(日ソ間)で平和条約は締結されていません
  • このように、北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)の領有権を巡る日本とロシアの間の対立、すなわち「北方領土問題」は、今なお解決を見ておらず、両国関係の正常化における最大の障害であり続けています。そして、その歴史的な根源をたどっていくと、1875年の樺太・千島交換条約における「千島列島」の定義と解釈という、一見些細に見えるかもしれない問題に行き着くのです。

まとめ:国境線を引くことの重み

1875年の今日、5月7日に、サンクトペテルブルクの地で調印された「樺太・千島交換条約」。それは、当時の日本とロシア帝国が、北方に横たわる広大な土地と島々の帰属をめぐる長年の懸案を、外交交渉によって平和裏に解決しようとした、明治初期の日本の重要な外交的成果の一つでした。樺太全島をロシア領とする代わりに、千島列島(日本側の理解ではウルップ島以北の18島)を日本領とする、という「交換」が成立しました。

しかし、その条約で用いられた「千島列島」という言葉の解釈を巡る曖昧さが、後の歴史の激動、特に第二次世界大戦という未曾有の出来事を経て、現代まで続く「北方領土問題」という、解決が極めて困難な課題を生み出す遠因となってしまいました。

同じ一つの歴史的な条約であっても、国や言語、そして時代によって、その解釈や重要視されるポイントが異なることは、歴史認識がいかに複雑で、多角的であるかを示しています。樺太・千島交換条約について、日本語、ロシア語、英語といった異なる言語で書かれた情報を比較検討してみることは、単に歴史的な事実を知るだけでなく、それぞれの立場から見た「歴史の語り方」の違いや、国際関係の難しさを理解する上で、非常に興味深く、また示唆に富む視点を与えてくれるかもしれません。

今日という日に、かつて日本とロシアの間で結ばれたこの重要な条約と、それが現代に投げかけている重い問いについて、改めて考えてみるのも良いのではないでしょうか。

※本記事では英語版、ロシア語版も参考にしました

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