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【4月24日】砂漠の悲劇、イラン人質救出「イーグルクロー作戦」失敗の日

今日は何の日?
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この記事のざっくりまとめ
  • イーグルクロー作戦」は、1979年にイランで起きたアメリカ大使館人質事件で、テヘランのアメリカ大使館に立てこもる過激派学生らに拘束されていたアメリカ人人質52人を武力で救出するために、アメリカ軍が極秘裏に計画・実行した軍事作戦です。
  • 作戦が決行されたのは、1980年の今日、4月24日の夜から翌25日の未明にかけてでした。
  • 作戦は、特殊部隊員を乗せた複数のヘリコプターと輸送機をイラン領内の砂漠に潜入させ、そこからテヘランの大使館を急襲するという、非常に複雑で大規模なものでした。
  • しかし、作戦開始直後から、砂漠の過酷な環境下でヘリコプターの故障が相次ぎ、さらに予期せぬ砂嵐にも見舞われたため、計画に必要な最低限の機数を確保できず、作戦は中止に追い込まれました。
  • さらに悪いことに、撤退しようとした際に、ヘリコプター1機と輸送機1機が地上で衝突・爆発炎上するという大事故が発生。この事故でアメリカ兵8名が死亡し、多数の負傷者が出ました。
  • 作戦は完全な失敗に終わり、残ったヘリコプターも砂漠に放棄して撤退。この失敗は当時のカーター政権に大きな政治的打撃を与え、後のアメリカ軍の特殊作戦部隊のあり方を大きく変えるきっかけとなりました。(人質は外交交渉により翌1981年に解放されました。)

今から45年前の今日、1980年4月24日。世界の目が中東のイランに注がれる中、アメリカ軍は国家の威信を賭けた極秘の軍事作戦を開始しました。その目的は、イスラム革命後の混乱が続くイランの首都テヘランで、過激派学生らによってアメリカ大使館に人質として捕らえられていた、52人のアメリカ人外交官らを武力によって救出すること。

イーグルクロー作戦(Operation Eagle Claw / ワシの鉤爪作戦)」と名付けられたこの大胆な試みは、成功すれば劇的な人質解放となり、アメリカの力を世界に示すはずでした。しかし、現実は非情でした。作戦は予期せぬ困難と不運、そして悲劇的な事故に見舞われ、完全な失敗に終わってしまうのです。

なぜこの作戦は計画され、そしてなぜ失敗してしまったのか? アメリカ現代史における、苦い記憶として残るこの作戦の真実に迫ります。

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背景:テヘランの人質危機

イーグルクロー作戦が計画される直接の原因となったのは、1979年11月4日に発生した「イランアメリカ大使館人質事件」です。

1979年初頭、イランではイスラム革命が起こり、長年アメリカが支援してきた親米派のパーレビ国王(シャー)の政権が打倒されました。代わって、亡命先から帰国した反米指導者ホメイニ師を最高指導者とするイスラム共和制が樹立され、イランとアメリカの関係は急速に悪化していました。

そんな中、アメリカ政府が、癌の治療という人道的な理由で前国王の入国を許可したことに激しく反発したイランの過激派学生グループが、テヘラン中心部にあるアメリカ大使館の敷地を占拠。大使館内にいたアメリカ人の外交官や海兵隊員、職員ら52人を人質として拘束したのです。(当初はもっと多くの人が捕まりましたが、女性やアフリカ系アメリカ人などは比較的早期に解放されました。)

学生たちは、アメリカ政府に対し、前国王の身柄引き渡しや、過去のアメリカによるイランへの内政干渉に対する謝罪などを要求しました。イランの新政府(ホメイニ師)も、この学生たちの行動を事実上支持し、人質事件は国家間の対立へと発展しました。

この事件は、アメリカ国民に大きな衝撃と屈辱感を与え、テレビニュースなどを通じて人質の姿が連日報道される中で、当時のジミー・カーター大統領に対する圧力は日に日に強まっていきました。「なぜアメリカは自国民を救えないのか」「もっと強い態度で臨むべきだ」といった世論が高まったのです。カーター政権は、国連や第三国を通じて、人質の解放に向けた外交交渉を粘り強く続けましたが、イラン側との交渉は全く進展せず、解決の糸口が見えないまま数ヶ月が過ぎていきました。

極秘の救出計画:「イーグルクロー作戦」

外交的な解決が絶望的と見なされるようになる中で、カーター政権は、最後の手段として、人質を武力で救出するための軍事作戦を秘密裏に計画し、準備を進めることを決断しました。それが「イーグルクロー作戦(Operation Eagle Claw)」と名付けられた、極めて大胆かつ複雑な計画でした。

作戦の全貌は最高機密でしたが、その概要は以下のようなものでした。

第一夜:砂漠への潜入と集結

まず、作戦決行の夜、アメリカ海軍の空母から発進した大型のヘリコプター部隊(8機が予定されていました)と、別の秘密基地から長距離飛行してきた特殊な大型輸送機(数機)が、イラン領内深くの人里離れた砂漠に設定された秘密の合流地点(コードネーム:デザート・ワン / Desert One)に、それぞれ秘密裏に着陸します。輸送機は、救出作戦を実行する陸軍の特殊部隊員(デルタフォースなど)と、ヘリコプター用の大量の燃料を運んできます。

第二夜への準備:給油と移動

デザート・ワンで、輸送機からヘリコプターへ迅速に燃料を補給します。その後、特殊部隊員がヘリコプターに乗り込み、首都テヘランにより近い、別の隠れ場所(デザート・ツー / Desert Two)へと、夜の闇に紛れて移動し、翌日の救出作戦に備えて待機します。

第二夜:テヘラン急襲と人質救出

翌日の夜、特殊部隊は隠れ場所から、事前にイラン国内に潜入した協力者などが用意した車両(トラックなど)に分乗し、テヘラン市内へと向かいます。そして、人質が監禁されているアメリカ大使館と、別の場所に拘束されていた可能性のあるイラン外務省の建物を、ほぼ同時に急襲します。警備兵を制圧し、人質全員を確保することが目標です。

第二夜~第三朝:脱出

人質を無事に確保した後、部隊はテヘラン市内または近郊にある、事前に占拠・確保しておいた飛行場(あるいは一時的に使える平地)へと急行します。そこには、アメリカ空軍の別の大型輸送機が待機しており、救出した人質と全部隊員がそれに乗り込み、イラン国外(おそらくはエジプトなどの中東の友好国)へと一気に脱出します。作戦に使用したヘリコプターは、機密保持と迅速な撤退のため、イラン国内に破壊・放棄するという計画でした。

この計画は、複数の軍種(陸軍、海軍、空軍、海兵隊)から精鋭部隊と最新鋭(当時)の装備を集め、それらを緊密に連携させて実行するという、前例のないほど複雑で、野心的な作戦でした。成功すれば、人質を解放し、アメリカの威信を回復できるはずでした。しかし、その一方で、天候、機材の性能、敵の反応、そして何よりも多くの兵士の命がかかった、極めて高いリスクを伴うものでもありました。

作戦決行、しかし…悪夢の始まり(1980年4月24日)

数ヶ月間にわたる極秘の準備と、厳しい訓練(ただし、異なる軍種間の連携訓練が十分だったかについては、後に多くの疑問が呈されることになります)を経て、カーター大統領はついに作戦決行の最終承認を下しました。

そして、1980年の今日、4月24日の夜、イーグルクロー作戦は静かに開始されました。空母からヘリコプターが発艦し、遠く離れた基地からは輸送機が飛び立ち、それぞれの目標地点であるイラン奥地の砂漠「デザート・ワン」を目指しました。

しかし、作戦は開始直後から、予期せぬ困難と不運に次々と見舞われ、計画は早くも狂い始めます。

ヘリコプターのトラブルが続発

作戦の成否の鍵を握っていたのは、長距離飛行と兵員輸送を担う海兵隊の大型ヘリコプター部隊でした。8機がこの重要な任務に投入されましたが、まずそのうちの1機が、飛行中にローター(回転翼)に深刻な亀裂が見つかるという致命的な機械トラブルに見舞われ、やむなく作戦を断念し、出発した空母へと引き返しました。

想定外の砂嵐(ハブーブ)に遭遇

さらに、残りのヘリコプターがイラン領内の砂漠地帯上空を飛行中、事前に予測されていなかった激しい砂嵐(現地の言葉でハブーブ / Haboob)に遭遇してしまいます。猛烈な砂塵によって視界はほぼゼロになり、エンジンにも砂が吸い込まれる危険な状況となりました。この砂嵐の中、もう1機のヘリコプターが計器故障を起こし、操縦不能となってしまい、これも作戦続行を断念し、引き返すことを余儀なくされました。

デザート・ワン到着、しかし…

なんとか砂嵐を突破し、目的地の合流地点「デザート・ワン」にたどり着くことができたヘリコプターは、予定より2機少ない6機のみとなっていました。しかも、砂嵐の中を飛行した影響で、到着時間は大幅に遅れていました。

さらなる致命的な故障

そして、デザート・ワンに着陸した6機のヘリコプターを点検したところ、追い打ちをかけるように、さらに1機の油圧系統に、飛行継続が不可能となる重大な故障が見つかってしまったのです。

作戦計画では、テヘランへの潜入、人質救出、そして全員の脱出を確実に遂行するためには、最低でも6機のヘリコプターが完全な状態で必要である、と計算されていました。しかし、この時点で現場で実際に稼働できるヘリコプターは、わずか5機。作戦を続行するための最低必要機数を下回ってしまったのです。

作戦中止と悲劇的な事故

デザート・ワンの現場指揮官(陸軍大佐)は、この絶望的な状況を前に、これ以上作戦を強行することは不可能であり、無謀なリスクを冒すだけだと判断しました。彼は衛星通信を通じてワシントンのカーター大統領に状況を報告し、作戦中止の許可を求めました。苦渋の決断の末、カーター大統領は作戦の中止と、全部隊の即時撤退を承認しました。人質救出の望みは、この時点で完全に断たれたのです。

しかし、悪夢はまだ終わっていませんでした。撤退準備を進めていた4月25日の未明、暗闇と、依然として砂嵐が舞う視界不良の中で、さらなる悲劇が発生します。

撤退のために兵員を他の輸送機に移そうと、離陸準備に入っていたヘリコプターの1機が、地上で低空移動中に、すぐ隣に駐機していた大型輸送機(この輸送機には、作戦のために運んできた大量の航空燃料と、撤退するはずだった特殊部隊員が乗り込んでいました)に接触し、衝突してしまったのです。

次の瞬間、両機は巨大な火の玉となって爆発、炎上しました。この大事故により、輸送機に乗っていたアメリカ空軍の兵士5名と、ヘリコプターに乗っていた海兵隊のパイロット・乗員3名の、合計8名のアメリカ兵が尊い命を落としました。さらに、数名が全身に重度の火傷を負うなどの重傷を負いました。

現場は地獄絵図と化しましたが、これ以上の被害拡大を防ぎ、残った部隊を安全に撤退させるため、指揮官は苦渋の決断を下します。事故を免れた残り5機のヘリコプター全てを、機密文書や装備品と共に、砂漠の真ん中にそのまま放棄し、残りの兵員は無事だった輸送機に急いで乗り込み、夜明け前にイラン領空から脱出したのです。

事故を起こした機体の残骸と、放棄された機体

こうして、アメリカの威信をかけた人質救出作戦「イーグルクロー」は、人質を一人も救出できないばかりか、自軍に8名の死者と多数の負傷者を出し、さらに最新鋭のヘリコプター5機を敵地に残すという、完全かつ悲劇的な失敗に終わりました。

失敗の原因と作戦が残したもの

なぜ、世界最強とも言われるアメリカ軍による特殊作戦が、これほどまでに無残な失敗を喫してしまったのでしょうか? 作戦後に行われた徹底的な調査と分析により、いくつかの複合的な原因が指摘されています。

失敗の原因

計画自体の複雑さと楽観的な前提

そもそも、夜間の砂漠への長距離潜入、複数地点での合流・給油、テヘラン市内への潜入・同時急襲、そして確保した飛行場からの脱出という、作戦計画全体があまりにも複雑で、多くの段階で完璧なタイミングと連携を要求するものでした。また、天候、機材の信頼性、イラン側の警戒態勢などについて、楽観的すぎる想定に基づいていたという批判があります。

準備・訓練の不足

作戦には、陸軍、海軍、空軍、海兵隊という、通常は別々に活動している異なる軍種の部隊が、急遽集められました。しかし、これらの部隊が一体となって行動するための合同訓練や、連携システムの構築が十分ではありませんでした。特に、作戦の成否を左右する、夜間の砂漠という特殊な環境下でのヘリコプターの編隊飛行や運用に関する訓練が不足していたことが、失敗の大きな要因とされています。

機材の信頼性と整備の問題

作戦に投入されたヘリコプターは、海軍の掃海(機雷除去)用ヘリコプターを改造したものでしたが、長距離飛行や砂漠の砂塵に対する耐久性・信頼性に元々問題があったのではないか、また、作戦前の整備が不十分だったのではないか、という指摘もあります。相次ぐ機材トラブルは、単なる不運だけでは片付けられない側面がありました。

指揮系統の複雑さ

複数の軍種が関与した統合任務であったため、現場における指揮命令系統が一本化されておらず、複雑だったことも、状況変化への迅速な対応や意思決定を難しくした可能性があります。

情報(インテリジェンス)の不足

事前の気象情報(特に砂嵐の発生可能性)の収集・分析が不十分でした。また、作戦地域である砂漠の地理的状況や、民間の交通量などの把握も甘かったと言われています。(実際に、デザート・ワンに着陸した後、偶然通りかかったイランの民間バスと、燃料を運ぶタンクローリーを発見し、作戦の露見を防ぐためにこれらを一時的に拿捕・拘束するという予期せぬ出来事も発生していました。)

そして、重なった不運

いくら綿密に計画し準備しても、予測不可能な事態は起こりえます。イーグルクロー作戦では、複数のヘリコプターがほぼ同時に深刻な故障を起こしたり、想定外の激しい砂嵐に遭遇したりといった、不運な要素が立て続けに重なったことも、失敗を決定的にした要因の一つと言えるでしょう。

作戦が遺したもの

この「イーグルクロー作戦」の失敗は、アメリカ国内外に大きな衝撃を与え、様々な影響を残しました。

アメリカ政治への打撃

作戦の失敗と犠牲者の発生は、人質問題の解決を期待していたアメリカ国民を深く失望させ、カーター大統領の指導力への信頼を大きく揺るがしました。これは、その年の秋に行われた大統領選挙で、現職のカーター大統領が共和党のロナルド・レーガン候補に大差で敗北する、大きな要因の一つになったと考えられています。

アメリカ軍特殊作戦部隊の大改革

この作戦の失敗から得られた最も重要な教訓は、異なる軍種間の連携不足と、特殊作戦を専門的に遂行するための能力の欠如でした。この反省に基づき、アメリカ軍では特殊作戦部隊のあり方が根本的に見直され、大規模な再編成と強化が行われました。

  • 各軍の特殊部隊を統括し、統合運用を行うための司令部として「統合特殊作戦コマンド(JSOC)」が1980年末に設立されました。
  • また、特殊作戦における高度な航空支援(特に夜間・低空でのヘリコプター運用)を専門に行う精鋭部隊として、陸軍に「第160特殊作戦航空連隊(通称:ナイトストーカーズ)」が1981年に創設されました。
  • イーグルクロー作戦の失敗は、皮肉にも、その後の湾岸戦争や対テロ戦争などで活躍することになる、現代のアメリカ特殊作戦部隊の強力な体制を築き上げるための、大きなきっかけとなったのです。

イラン側への影響

一方、イラン側にとって、アメリカ軍の救出作戦失敗は、イスラム革命の正当性と「神の加護」を示す格好の材料となりました。反米感情はさらに高まり、ホメイニ師の体制はより強固になりました。また、人質たちは、さらなる救出作戦や外部からの接触を恐れて、テヘラン市内のより安全な場所(あるいは複数の場所に分散して)へ移され、厳重な監視下に置かれるようになり、その解放は一層困難になりました。

人質の最終的な解放

では、人質たちはどうなったのでしょうか? 武力による救出作戦は失敗に終わりましたが、その後も水面下での外交交渉は続けられました。そして、アルジェリア政府の献身的な仲介努力が実を結び、カーター大統領の任期最終日(そしてレーガン大統領の就任式当日)である1981年1月20日、アメリカとイランの間で「アルジェ合意」が成立。大使館占拠から実に444日ぶりに、52人のアメリカ人人質全員が無事に解放され、故国の土を踏むことができたのです。最終的には、軍事力ではなく、粘り強い外交交渉が、この困難な人質事件を解決へと導いたのでした。

まとめ:砂漠に消えた「ワシの鉤爪」

1980年の今日、4月24日に開始された「イーグルクロー作戦」。それは、遠い異国の地で囚われの身となった同胞を救い出すという、困難な、しかし遂行されるべき使命を帯びた、アメリカの総力を挙げた極秘作戦でした。しかし、周到に練られたはずの計画は、イランの広大な砂漠の暗闇の中で、予期せぬ機材の故障、自然の猛威(砂嵐)、そして悲劇的な事故によって、音もなく崩れ去ってしまいました。作戦名「ワシの鉤爪」は、獲物を掴むことなく、砂漠にその残骸を残して消えていったのです。

この作戦の失敗は、軍事作戦というものが、いかに多くの予測不可能な要素を内包し、計画通りに進むことが難しいか、そして準備、訓練、情報、部隊間の連携、そして時には「運」がいかに重要であるかを、改めて世界に示すものでした。

そして、その痛ましい犠牲と失敗から得られた教訓は、その後のアメリカの軍事戦略、特に特殊作戦のあり方を大きく変え、今日の体制へと繋がっています。イーグルクロー作戦は、成功していれば歴史に残る英雄的な救出劇として語り継がれたかもしれませんが、結果としては、冷戦下の国際政治の緊張と、困難なミッションに挑む兵士たちの勇気、そして作戦失敗がもたらした深刻な影響を示す、ほろ苦い歴史の一ページとして記憶されることになったのです。

※本記事では英語版も参考にしました

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