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【5月11日】英国史上唯一、暗殺された首相 スペンサー・パーシヴァルの悲劇

今日は何の日?
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この記事のざっくりまとめ
  • スペンサー・パーシヴァル(1762年~1812年)は、19世紀初頭のイギリスの政治家で、トーリー党に属し、首相(在任:1809年~1812年)を務めました
  • 彼の首相在任期間は、フランスのナポレオン戦争の真っ只中であり、また国王ジョージ3世が精神疾患で統治不能となり、皇太子が摂政を務めるという、国内外ともに非常に困難な時期にあたっていました。
  • 1812年の今日、5月11日の夕方、パーシヴァル首相は、ロンドンのイギリス議会庶民院(下院)のロビーで、ジョン・ベリンガムという男によってピストルで胸を撃たれ、暗殺されました
  • 犯人のベリンガムは、個人的な事業の失敗でロシアで投獄された経験があり、その際にイギリス政府から十分な支援を得られなかったことへの恨みを募らせ、首相個人を標的としたとされています。
  • スペンサー・パーシヴァルは、イギリスの長い歴史の中で、暗殺によって命を落とした唯一の首相として記録されています。その死は当時のイギリス社会に大きな衝撃を与えました。

今から200年以上も昔、1812年の今日、5月11日。イギリスの政治の中心地であるロンドンのウェストミンスター宮殿(国会議事堂)で、英国史を揺るがす衝撃的な事件が発生しました。時のイギリス首相、スペンサー・パーシヴァルが、議会のロビーで一発の凶弾に倒れたのです。

これは、長い伝統を誇るイギリスの議会政治の歴史の中で、首相が暗殺されるという、唯一の事件として記録されています。当時、イギリスはナポレオン率いるフランス帝国との存亡をかけた戦争(ナポレオン戦争)の真っ只中にあり、国内的にも困難な問題を抱えていました。そんな激動の時代に国を率いたこの首相は、なぜ、そしてどのようにして命を奪われることになったのでしょうか?

彼の命日である今日、スペンサー・パーシヴァルの生涯と、その悲劇的な最期の日に光を当ててみましょう。

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法律家から政治の道へ:パーシヴァルの前半生

スペンサー・パーシヴァル

スペンサー・パーシヴァル(Spencer Perceval)は、1762年11月1日に、アイルランド貴族の家系に生まれました(ただし、彼自身はイングランドで育ちました)。名門ケンブリッジ大学で学んだ後、彼は法律家としての道を志し、法廷弁護士として優れた能力を発揮し、成功を収めます。

彼の政治家としてのキャリアが本格的にスタートしたのは、1796年、30代半ばで庶民院(イギリス議会の下院)議員に選出されたことでした。彼は保守的な政治思想を持つトーリー党(現在の保守党の前身の一つ)に所属し、その明晰な頭脳、雄弁な弁舌、そして実務能力によって、党内で急速に頭角を現していきました。

彼は、法務長官(Attorney General)や財務大臣(Chancellor of the Exchequer)といった、内閣の重要な役職を歴任し、政治家としての経験と名声を着実に積み重ねていきました。個人的には、非常に敬虔な福音主義のキリスト教徒としても知られ、道徳的にも厳格で、家族を大切にする人物であったと言われています。また、彼は奴隷貿易の廃止に対しても強い信念を持っており、彼が法務長官であった時期(1807年)に、イギリス帝国における奴隷貿易を禁止する重要な法律が成立しています。

ナポレオン戦争下の首相就任という重責

スペンサー・パーシヴァルが、ついにイギリスの首相の座に就いたのは、1809年10月のことでした。彼が国のかじ取りを任された当時のイギリスは、まさに国家的な危機と言える、極めて困難な状況下にありました。

ナポレオン戦争の激化

ヨーロッパ大陸では、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍が、その圧倒的な軍事力で次々と勝利を重ね、ヨーロッパの大部分を支配下に置いていました。イギリスは、島国という地理的な利点を活かしてフランスの直接侵攻こそ免れていましたが、ナポレオンが発した「大陸封鎖令」(イギリスとヨーロッパ大陸との貿易を禁止する命令)によって経済的に大きな打撃を受け、フランスとその同盟国との間で、存亡をかけたナポレオン戦争を激しく戦っていました。

パーシヴァル政権の最大の課題は、この困難な戦争をいかに遂行していくか、ということでした。

国王ジョージ3世の精神疾患

さらに、国内の政治状況も不安定でした。当時のイギリス国王ジョージ3世は、長年にわたり精神疾患(現在では遺伝性の代謝異常であるポルフィリン症が原因ではないかと考えられています)に苦しんでおり、その症状が悪化し、1810年末には完全に統治能力を失ってしまいました。そのため、1811年からは、国王の長男であるプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)ジョージ(後の国王ジョージ4世)が、摂政皇太子(Prince Regent)として、父王に代わって国務を執り行うという、いわゆる「摂政時代(Regency era)」に入っていました。

国王の不在は、政治的な不安定さを増幅させる要因ともなっていました。

このような、対外的にはナポレオンとの戦争、国内的には国王の病と摂政政治という、内外ともに極めて困難な状況の中で、スペンサー・パーシヴァルはトーリー党内の支持をまとめ上げ、イギリスの首相として、国家のリーダーシップを担うことになったのです。彼は、戦争遂行のための莫大な戦費をいかに調達するかという財政問題や、大陸封鎖令によって引き起こされた経済不況(ラッダイト運動のような社会不安も発生していました)への対応などに、日々腐心していました。

運命の日:議会での凶行 (1812年5月11日)

首相として、これらの国難に立ち向かっていたスペンサー・パーシヴァル。しかし、そのリーダーシップは、あまりにも突然に、そして暴力的な形で断ち切られることになります。

1812年の今日、5月11日の夕方、午後5時過ぎのことでした。パーシヴァル首相は、庶民院(イギリス議会の下院)で行われる、政府の経済政策に関する重要な審議に出席するため、ウェストミンスター宮殿(現在の国会議事堂)内にある、庶民院の議場へと続くロビーに到着しました。

その時、ロビーで待ち構えていた一人の男が、パーシヴァル首相に静かに近づき、そして至近距離から、隠し持っていたピストルを首相の胸に向けて発射したのです。

弾丸はパーシヴァル首相の心臓近くを直撃しました。彼は「おお、私は殺された!(Oh, I have been murdered!)」あるいは「殺された!(Murder!)」と叫んだ(または、うめき声を発した)と伝えられていますが、その場に崩れ落ち、数分後には息を引き取りました。ほぼ即死状態だったと言われています。

イギリスの議会という、まさに国家の政治の中枢で、現職の首相が白昼堂々と射殺されるという前代未聞の凶行は、その場に居合わせた議員や職員たちに、計り知れないほどの衝撃と大混乱をもたらしました。

犯人の動機と裁判:個人的な絶望が生んだ凶行

パーシヴァル首相を暗殺した犯人は、銃声を聞いて駆けつけた議員らによって、その場で取り押さえられました。彼の名は、ジョン・ベリンガム(John Bellingham)。リヴァプール出身の商人でした。

なぜベリンガムは、首相を殺害するという凶行に及んだのでしょうか? 彼の動機は、特定の政治的な思想や、何らかの組織的な陰謀によるものではなく、個人的な不満と絶望感が原因でした。

ベリンガムは、以前、ロシアで木材貿易などの事業を行っていましたが、その際に取引上のトラブルからロシア当局によって不当に逮捕・投獄された、と主張していました。彼は、この投獄中にイギリス政府(特に駐ロシア大使館)から十分な保護や支援を受けられなかったことに強い恨みを抱き、釈放されてイギリスに帰国した後、イギリス政府に対して、被った損害に対する多額の賠償を執拗に求めていました。

しかし、彼の請願や要求は、政府の各部署によってことごとく拒否され続けました。長年にわたる努力が実を結ばず、経済的にも困窮し、次第に精神的に追い詰められていったベリンガムは、その行き場のない怒りと不満の矛先を、イギリス政府のトップであるパーシヴァル首相個人に向けてしまったのです。彼は、首相を殺害するという衝撃的な行動によって、自らの苦境を世間に訴え、政府に「正義」を行わせることができると考えた、と供述したと言われています。

ジョン・ベリンガムに対する裁判は、事件からわずか4日後の5月15日という、異例の速さで開始されました。彼は法廷で、自らの行為の正当性を主張し、精神異常を装うそぶりも見せましたが、それは認められませんでした。彼は殺人罪で有罪となり、事件からちょうど1週間後の5月18日には、ニューゲート監獄前で絞首刑に処せられました。

英国史上「唯一」の暗殺された首相

スペンサー・パーシヴァルは、その長いイギリスの議会政治の歴史の中で、在任中に暗殺という暴力的な手段によって命を落とした、ただ一人の首相として、今日まで記憶されています。

その後も、例えば1984年のIRA(アイルランド共和軍)によるブライトンでの爆弾テロ事件(当時のサッチャー首相が標的となりましたが、無事でした)のように、首相の命が狙われたケースはいくつかありますが、実際に暗殺が成功し、首相が殺害されてしまったのは、このパーシヴァルの事例だけです。

この衝撃的な事件は、当時のイギリス社会に大きな動揺を与え、首相や政府要人の警護体制について、改めて見直されるきっかけともなりました。

パーシヴァルの評価と遺産:歴史の陰の指導者

スペンサー・パーシヴァルの首相在任期間は、1809年10月から1812年5月までの、わずか2年半ほどと、決して長いものではありませんでした。また、その最期があまりにも劇的で衝撃的であったため、彼の政治家としての具体的な業績や歴史的な評価は、しばしばその死の陰に隠れてしまい、十分に語られてこなかった側面があります。

しかし、近年の歴史家による再評価の中では、彼がナポレオン戦争という、イギリスにとって未曽有の国難の時代に、極めて困難な財政状況の中で戦争を遂行し、国の結束を維持しようと奮闘した指導力や、摂政時代という複雑な国内政治状況を乗り切ろうとした行政手腕などが、より公平に評価されるようになってきています。

また、彼が法務長官であった1807年には、ウィリアム・ウィルバーフォースらの長年の運動が実を結び、イギリス帝国におけるアフリカ人奴隷貿易を禁止する法律が成立しましたが、この歴史的な人道的改革の実現にも、パーシヴァルは政府の一員として深く関与していたことが指摘されています。

個人的には、彼は非常に誠実で、勤勉、そして敬虔な信仰心を持つ人物であり、多くの子供たち(妻との間に12人の子供がいました)を愛する家庭人でもあったと伝えられています。その清廉な人柄は、政敵からも一定の敬意を払われていたようです。

もし彼が、あの運命の日に凶弾に倒れることがなければ、そして首相としてさらに長く国を導くことができていたなら、その後のイギリスの歴史、特にナポレオン戦争の終結や、戦後の社会・経済再建のあり方は、少し違ったものになっていたかもしれません。

まとめ:歴史の陰に消えた悲劇の宰相

1812年の今日、5月11日に、イギリス議会のロビーで暗殺者の凶弾に倒れた首相、スペンサー・パーシヴァル。彼は、イギリスの長い歴史の中で、暗殺によってその生涯を終えた、ただ一人の首相として、その名を特異な形で歴史に刻んでいます。

ナポレオン戦争というヨーロッパ全体を巻き込んだ激動の時代に、イギリスという大国を率い、多くの困難な課題に立ち向かった指導者でしたが、その志半ばで、一人の男の個人的な絶望と狂気が引き起こした凶行によって、あまりにも突然にその命を奪われてしまいました。

彼の悲劇的な死は、政治指導者が常に直面しうる危険性と、そして歴史の大きな流れの中で、時に個人の運命がいかに些細な(しかし決定的な)偶然によって左右されてしまうか、その厳しさを私たちに強く印象付けます。

今日という日に、しばしば歴史の陰に埋もれがちなこの「悲劇の宰相」の生涯と、彼が生きた困難な時代のことを、少し振り返ってみるのも、歴史の深みと教訓を感じる良い機会となるかもしれません。

※本記事では英語版も参考にしました

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