- 「ドナー隊(Donner Party)」とは、19世紀半ばのアメリカ西部開拓時代に、豊かな新天地カリフォルニアを目指した移民の一団のことです。
- 彼らは、1846年の今日、5月12日にミズーリ州インディペンデンスを幌馬車隊で出発しました。
- しかし、旅の途中で「ヘイスティングズ・カットオフ」と呼ばれる、危険な未検証の「近道」を選択してしまったことや、リーダーシップの問題、そして例年より早い冬の到来といった不運が重なり、一行はカリフォルニアの手前、シエラネバダ山脈の山中で雪に閉じ込められ、遭難してしまいました。
- 1846年の冬から翌年春にかけて、彼らは想像を絶する飢餓、極寒、そして病気に苦しめられました。生き残るため、やむを得ず亡くなった仲間の遺体を食べる(食人 / カニバリズム)という、究極の選択を迫られた人々もいたとされています。
- 約87人で出発したドナー隊のうち、生きてカリフォルニアにたどり着けたのは半数程度の約46人でした。この事件は、アメリカ西部開拓の過酷さを象徴する、最も悲惨な遭難事件の一つとして歴史に記憶されています。
今から170年以上も昔、1846年の今日、5月12日。アメリカ中西部の町インディペンデンス(ミズーリ州)から、一台、また一台と、幌馬車が西へと向かって動き出しました。その中には、イリノイ州スプリングフィールドからやってきた、ジョージ・ドナーとジェイコブ・ドナーの兄弟とその家族たち、そして同じく裕福な事業家ジェームズ・リードとその家族たちを中心とする、一団の人々がいました。
彼らは、当時の多くのアメリカ人が抱いていた夢――広大な西部の未開の地を切り開き、より豊かで自由な新しい生活を築くこと、特に温暖で肥沃な土地と噂された「カリフォルニア」という黄金郷への移住――を目指していました。
この、ドナー家とリード家が中心となった移民集団は、後に「ドナー隊(Donner Party)」と呼ばれることになります。しかし、彼らが希望に胸を膨らませて出発したこの旅は、アメリカ西部開拓の歴史の中でも、最も悲惨で、最も衝撃的な遭難事件の一つとして、後世に語り継がれることになる、悪夢のような結末を迎えるのです。
今回は、ドナー隊の悲劇的な物語について、その希望に満ちた出発から、想像を絶する極限状況、そしてあまりにも痛ましい結末までを、簡潔に辿ってみたいと思います。
夢と希望を乗せて:カリフォルニアへの旅立ち
19世紀半ばのアメリカ合衆国は、まさに「西部開拓(Westward Expansion)」の真っ只中にありました。「より良い土地を求めて西へ!」という気運が高まり、多くの人々が、家族や家財道具を幌馬車に積み込み、何千キロメートルもの長く困難な道のりを乗り越えて、ミシシッピ川を越え、ロッキー山脈を越え、そして太平洋岸のカリフォルニアやオレゴンといった新天地を目指していました。
「ドナー隊」もまた、そのような大きな夢を抱いた開拓移民の一団でした。中心となったのは、イリノイ州スプリングフィールドで成功していた農場主、ジョージ・ドナーとジェイコブ・ドナーの兄弟と、それぞれの大きな家族たち。そして、同じくスプリングフィールドの裕福な家具製造業者であったジェームズ・リードとその妻、子供たちでした。彼らは、それまでの安定した生活を捨ててでも、カリフォルニアで新たな成功を掴もうと考えていたのです。
彼らに加え、道中で他のいくつかの家族や、単身で参加する個人などが合流し、最終的にドナー隊のグループは、男性、女性、そして多くの子供たちを含む、総勢80数名(正確な人数には諸説あります)からなる、比較的大きな幌馬車隊(キャラバン)を形成しました。
1846年の今日、5月12日、ドナー家とリード家を中心とする主要なグループは、当時、西部へ向かう多くの開拓者たちの重要な出発点となっていたミズーリ州の町インディペンデンスを、カリフォルニアに向けて出発しました。彼らは、生活に必要な道具や食料、そして家畜などを満載した、頑丈な幌馬車を何台も連ね、数ヶ月にも及ぶであろう、長く、そして未知の危険に満ちた旅路へと、希望を胸に足を踏み出したのです。
運命の分かれ道:危険な「近道」への誘惑

(出典:wikimedia commons)
当時、カリフォルニアへと向かうための主要なルートは、すでに多くの開拓者たちが通った実績のある「カリフォルニア街道(California Trail)」でした。これは、ワイオミング州あたりで、より北のオレゴンへ向かう「オレゴン街道」から分岐し、シエラネバダ山脈を越えてカリフォルニアへと至る、比較的安全で、水場や牧草地なども知られていた道でした。
しかし、ドナー隊の旅の途中で、彼らの運命を大きく狂わせる情報がもたらされます。それは、「ヘイスティングズ・カットオフ(Hastings Cutoff)」と呼ばれる、新しい「近道」の存在でした。
このルートは、ランズフォード・ヘイスティングズという名の探検家であり、著述家でもあった人物が、自著などで
従来のカリフォルニア街道よりも数百マイル(数百キロメートル)も距離を短縮でき、より早くカリフォルニアに到着できる、画期的な新ルートだ
と、大々的に宣伝していたものでした。
ドナー隊の一部のリーダーたち、特にジェームズ・リードなどは、この「近道」の誘惑に強く惹かれました。すでに旅程は予定よりも少し遅れ気味であり、時間を節約し、他の移民隊よりも早くカリフォルニアに到着できれば、より良い土地を確保できるかもしれない、と考えたのです。
先行していた他のいくつかの小さなグループも、このヘイスティングズ・カットオフを選んでいました。そして、ドナー隊もまた、一部の慎重な意見(この近道はまだ誰も安全に通り抜けた実績がない、という警告もありました)を退け、この未知で危険な「近道」へと進むという、致命的な判断ミスを犯してしまいます。
しかし、このヘイスティングズ・カットオフは、実際にはヘイスティングズ自身も完全には踏破したことがなく、道は整備されておらず、現在のユタ州のワサッチ山脈や、広大なグレートソルト湖砂漠(塩の砂漠)を横断するという、想像を絶するほど困難で、水も草も極端に乏しい、極めて危険なルートだったのです。しかも、「近道」どころか、実際には従来ルートよりも時間がかかってしまうことが、後に判明します。
シエラネバダの罠:早すぎた冬の到来
ヘイスティングズ・カットオフでの悪夢のような道のりで、ドナー隊は貴重な時間、体力、そして多くの家畜を失いました。幌馬車を何台も放棄せざるを得なくなり、食料も底をつき始めました。道中では、水や食料を巡る争いや、リーダーシップの欠如からくる内部分裂、そしてついにはメンバーの一人が別のメンバーを殺害してしまうという事件まで起こり、集団の結束は大きく揺らぎ始めていました。
なんとかこの悪路を命からがら抜け出し、カリフォルニア街道の主要ルートに再び合流できた時には、すでに秋も深まっていました。彼らの前には、カリフォルニアに到達するための最後の、そして最大の難関である、標高2,000メートルを超えるシエラネバダ山脈の険しい山越えが待ち受けていました。
通常であれば、10月中にはこの山脈を越え、カリフォルニアの温暖な谷へとたどり着けるはずでした。しかし、その年のシエラネバダの冬は、例年よりも異常に早く、そして厳しいものでした。
1846年の10月の終わり頃、ドナー隊がシエラネバダ山脈の東側の麓、現在のカリフォルニア州とネバダ州の州境近くにあるトラッキー湖(この湖は、後にドナー隊の悲劇にちなんで「ドナー湖(Donner Lake)」と名付けられることになります)付近にたどり着いた時、彼らは猛烈な吹雪と、数メートルにも達する深い積雪に見舞われ、完全に山中に閉じ込められてしまったのです。それは、1846年の10月末から11月初旬にかけてのことでした。カリフォルニアは、もう目と鼻の先だったにも関わらず……。
絶望の越冬:飢餓、極寒、そして…禁断の行為
シエラネバダ山脈の雪深い高地で、ドナー隊の約80名(その中には多くの女性や、幼い子供たちも含まれていました)は、想像を絶するほど過酷な冬を越さなければならなくなりました。彼らは、トラッキー湖畔と、そこから数マイル離れたアルダー川沿いの二箇所に分かれて、急ごしらえの粗末な丸太小屋や、幌馬車を改造したテントなどで、身を寄せ合って猛烈な寒さと、次から次へと襲い来る吹雪に耐えました。
持参していた食料は、あっという間に底をつきました。狩りに出ても、深い雪の中で獲物を見つけることはほとんどできませんでした。彼らは、まず連れてきていた家畜(牛や馬、犬など)を殺して食べましたが、それもすぐになくなってしまいます。その後は、死んだ家畜の骨を煮出してスープにしたり、革製品(靴やベルトなど)を焼いたり煮たりして食べたり、木の皮や小枝、コケまで口にして、必死に飢えをしのごうとしました。
しかし、極度の飢餓と、氷点下数十度にもなる極寒、そして不衛生な環境からくる病気(壊血病や赤痢など)によって、人々は一人、また一人と、力尽きて命を落としていきました。
そして、この人間の生存の限界とも言える極限状況の中で、ドナー隊の悲劇を最も有名にし、そして最も世界に衝撃を与えた、ある禁断の行為が行われたとされています。それは、亡くなった仲間の遺体を食べる――すなわち「食人(カニバリズム)」です。
生き残るためには、他に食べるものが何もない。目の前で家族や仲間が餓死していくのを見るか、それとも人間としての最後の尊厳を捨ててでも、死者の肉を口にして生き延びるか……。この究極の、そしてあまりにもおぞましい選択を迫られた結果、一部の人々が、やむにやまれずその禁断の行為に手を染めた、という記録や証言が、後の生存者たちによって残されているのです。(ただし、誰が、いつ、どのような状況で食人が行われたのか、その詳細については、生存者たちの証言も食い違う部分や、意図的に隠された部分も多く、完全に明らかになっているわけではありません。)
12月半ば、このままでは全員が餓死してしまうと判断した、比較的体力のある男女15名(そのうち女性は5名でした)が、自作の粗末な雪靴(かんじき)を履き、わずかな食料(それはしばしば仲間の遺体の一部だったと言われます)を持って、シエラネバダ山脈を徒歩で越え、カリフォルニア側の入植地に助けを求めるための、決死の救助要請隊(後に「フォーローン・ホープ隊 / Forlorn Hope party / 絶望的な希望の隊」と呼ばれるようになります)を編成して出発しました。しかし、彼らの33日間に及ぶ雪山越えの道のりもまた、想像を絶するほど過酷を極め、飢えと極度の疲労、そして仲間割れや精神錯乱の中で、15名のうち7名が途中で死亡。彼らもまた、生き延びるために亡くなった仲間の遺体を食べた、と伝えられています。
救助、そして生還者たちの証言
ドナー隊がシエラネバダ山中に雪で閉じ込められてから数ヶ月が経過した、1847年の2月になって、ようやく最初の救助隊が、彼らがいたトラッキー湖畔の野営地に到着しました。これは、フォーローン・ホープ隊の生き残りが、文字通り命からがらカリフォルニア側のサッター砦(現在のサクラメント近郊)にたどり着き、悲惨な状況を伝えた結果でした。
その後、春にかけて、合計4回にわたる救助隊が次々と派遣され、野営地に取り残されていた生存者たちは、少しずつ、しかし困難を極めながら救出されていきました。救助隊員たちが目にしたドナー隊の野営地の光景は、あまりにも悲惨で、言葉を失うほどだったと言われています。雪の中に半ば埋もれた粗末な小屋、凍死したり餓死したりした多くの人々の遺体、そして明らかに食人が行われたことを示す、おぞましい痕跡……。
最後の生存者が救出されたのは、1847年の4月下旬のことでした。当初、春に出発した時には約87名いたとされるドナー隊のメンバーのうち、最終的に生きてカリフォルニアの地にたどり着くことができたのは、わずか46名(いくつかの資料では48名ともされています)。つまり、半数近くの人々が、その過酷な旅の途中で命を落としてしまったのです。特に、男性の死亡率が女性よりも著しく高かったことが記録されています。多くの子供たちが生き延びることができたのは、母親たちが自らの食料を分け与え、必死に子供たちを守ろうとした結果である、とも言われています。
ドナー隊の悲劇が残したもの:西部開拓の光と影
ドナー隊の遭難事件は、その衝撃的な内容、特に食人というタブーにまで至ったという事実から、当時のアメリカ社会に大きな衝撃を与え、新聞などで大々的に報道されました。そして、アメリカ西部開拓の歴史における、最も有名な悲劇の一つとして、長く語り継がれることになります。
なぜ、このような悲劇が起こってしまったのでしょうか? その主な原因として、歴史家たちは以下の点を挙げています。
- リーダーシップの欠如と集団の内部分裂
困難な状況に直面した際に、集団全体をまとめ、冷静で適切な判断を下せる、強力で信頼されるリーダーがいなかったこと。メンバー間の意見の対立や、個人的なエゴが、集団の結束を弱めてしまいました。 - ヘイスティングズ・カットオフという危険な「近道」を選択した、致命的な判断ミス
これが、旅程の大幅な遅れと、多くの物資・家畜の損失、そして隊員たちの疲弊を招いた、全ての困難の始まりでした。未知のルートを、十分な情報収集や準備なしに選択したことの代償は、あまりにも大きかったのです。 - もともとの出発時期の遅れ
ドナー隊がインディペンデンスを出発した5月12日という日付は、当時のカリフォルニア街道を行く移民隊としては、すでにやや遅い時期でした。この遅れが、シエラネバダ山脈を越える前に冬将軍に捕まってしまうリスクを高めていました。 - そして、避けられない不運
これらの人為的な要因に加えて、その年のシエラネバダ山脈の冬が、例年よりも異常に早く訪れ、そして記録的な大雪と厳しい寒さをもたらした、という自然の猛威も、彼らの運命を決定づける大きな要因となりました。
ドナー隊の悲劇は、その後の西部開拓を目指す多くの人々にとって、貴重な、しかしあまりにも痛ましい教訓となりました。未知のルートを安易に信じて選択することの危険性、十分な準備と正確な情報収集の決定的な重要性、そして何よりも、大自然の厳しさと、人間の力の限界…。
この事件は、アメリカの歴史における最も有名な悲劇の一つとして、その後も数多くの書籍、学術的な研究、ドキュメンタリー番組、そしてフィクション作品(小説、映画、テレビドラマなど)の題材となり、人間の極限状態における心理や行動、リーダーシップのあり方、そして生と死の意味について、多くのことを私たちに問いかけ続けています。
まとめ:カリフォルニアへの遠い道のり
1846年の今日、5月12日。輝かしい未来と、豊かな新天地カリフォルニアでの新しい生活を夢見て、ミズーリ州インディペンデンスの町を幌馬車で出発した、ドナー隊の人々。しかし、彼らがたどった道のりは、希望に満ちたものではなく、一つの誤ったルート選択と、厳しい自然の猛威、そして人間の弱さと極限状態が引き起こした、想像を絶する苦難と悲劇の連続でした。
ドナー隊の物語は、アメリカ西部開拓時代が持つ、夢とロマン、フロンティア精神といった「光」の部分だけではなく、その裏に常に存在した、過酷な自然との戦い、人間の過ち、そして時には目を背けたくなるような残酷な現実という「影」の部分を、私たちに強く突きつけてきます。
彼らの悲劇的な経験は、極限状態に置かれた人間が何をし、何を考え、そして何に耐えることができるのか(あるいは、できないのか)、そして生きるとはどういうことなのか、という、時代を超えた重い問いを、私たちに投げかけているのかもしれません。
※本記事では英語版も参考にしました




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