- 「1889年のランドラッシュ」は、アメリカ合衆国政府が、インディアン準州(現在のオクラホマ州中央部)にあった「未割り当ての土地」約200万エーカーを、白人入植者に開放した歴史的なイベントです。
- 1889年の今日、4月22日の正午、開始の合図とともに、境界線で待機していた推定5万人以上の人々が一斉に土地めがけて駆け出し、早い者勝ちで土地の所有権(1区画160エーカー)を主張するという、壮絶な土地争奪戦が繰り広げられました。
- この結果、オクラホマシティやガスリーといった現在の主要都市が、文字通り一日で誕生しました。西部開拓時代の象徴的な出来事とされています。
- しかし、ルールを破って開始時間より早く(sooner)土地に侵入し、有利な場所を確保した「スーナー(Sooners)」と呼ばれる違反者も多数存在し、多くの紛争を引き起こしました。また、この土地が元々先住民から奪われたものであったという、負の側面も持っています。
今から130年以上も昔、1889年の今日、4月22日。アメリカ中西部、現在のオクラホマ州となる地域の大平原で、歴史上、他に類を見ないような、驚くべき光景が繰り広げられました。正午を告げる号砲(あるいはラッパの音)を合図に、地平線を埋め尽くすほどの数万の人々が、馬を駆り、馬車を走らせ、あるいは自らの足で、目の前に広がる土地をめがけて一斉に駆け出したのです!
これは、アメリカ西部開拓時代の終わりを象徴する出来事の一つ、「1889年のランドラッシュ(Land Rush of 1889)」(オクラホマ・ランドランとも呼ばれます)です。「早い者勝ち」で土地の所有権が与えられるという、まさに国を挙げての土地争奪戦でした。
なぜこのような狂騒的なイベントが開催されたのか? そして、その結果はどうなったのでしょうか? アメリカのフロンティア精神の光と、その裏に潜む影の両面を映し出す、この劇的な一日を振り返ってみましょう。
舞台は「未割り当ての土地」:ランドラッシュの背景
19世紀後半のアメリカは、「西部開拓」の時代でした。東海岸から多くの人々が、より良い生活や一攫千金を夢見て、広大な西部へと移住していきました。そんな中、多くの白人入植者や土地投機家たちの間で、ある特別な土地が熱い視線を集めるようになります。
それは、当時の「インディアン準州(Indian Territory)」と呼ばれた地域(現在のオクラホマ州の大部分に相当)の、ちょうど真ん中に位置していた、広大な「未割り当ての土地(Unassigned Lands)」でした。インディアン準州とは、もともとアメリカ合衆国政府が、東部に住んでいたチェロキー族、チョクトー族、クリーク族、セミノール族、チカソー族(文明化五部族と呼ばれる)などの多くの先住民(インディアン)部族を、半ば強制的に移住させた場所でした。
しかし、皮肉なことに、そのインディアン準州のど真ん中には、どの部族にも正式には割り当てられていない、約200万エーカー(約8,100平方キロメートル、東京都の約4倍にも相当!)もの広大な土地が「空白地帯」として存在していたのです。この土地は、元々はクリーク族とセミノール族の土地でしたが、彼らが南北戦争(1861-1865)の際にアメリカ連合国(南軍)側についた(と見なされた)ことへの懲罰として、戦後、アメリカ連邦政府によって割譲させられたものでした。
鉄道が次々とインディアン準州の近くまで敷設され、西部の土地への関心が高まるにつれて、「なぜこの広大で肥沃そうな土地を使わないでおくのか?」という声が、白人の間で高まっていきました。土地を求める入植希望者や、安く土地を手に入れて高く売りたい土地投機家たちは、政府に対してこの「未割り当ての土地」を白人に開放するように、強い圧力をかけ始めます。「ブーマー(Boomers)」と呼ばれる、土地開放を声高に主張し、時には集団で不法にこの土地へ侵入しようと試みる運動家たち(その指導者としてデイヴィッド・L・ペインなどが有名)も登場し、社会的な注目を集めました。
長年にわたる議論と、こうした政治的・社会的な圧力の結果、アメリカ連邦政府(当時の大統領はベンジャミン・ハリソン)は、ついに1889年3月、この「未割り当ての土地」を白人入植者に向けて開放することを正式に決定しました。
そして、その土地の分配方法として採用されたのが、ホームステッド法(1862年に制定された法律で、公有地に5年間定住し、開墾・耕作するなどの条件を満たせば、1区画160エーカー(約65ヘクタール)の土地を無償またはごくわずかな手数料で取得できるという、西部開拓を強力に推進した法律)の原則に基づきつつ、指定された日時に全員が一斉にスタートし、文字通り「早い者勝ち」で好きな土地を選び、権利を主張するという、前代未聞の「ランドラッシュ(Land Rush)」方式だったのです。
政府は、その開始日時を1889年4月22日の正午きっかりと定め、境界線からの侵入はそれまで固く禁じると布告しました。
号砲一発!怒涛の土地争奪戦(1889年4月22日)
土地開放の知らせは、電信などを通じて瞬く間にアメリカ全土に伝わりました。新しい土地で人生をやり直したい農民、一攫千金を狙う商人や投機家、冒険を求める若者… 様々な夢や野心を抱いた人々が、汽車を乗り継ぎ、馬を走らせ、幌馬車を揺らし、あるいは何日もかけて歩いて、この「約束の地」の境界線へと集結しました。
開始日である4月22日が近づくにつれ、境界線の周辺には、まるで巨大な軍隊のように、おびただしい数の人々(その数は推定で5万人以上とも言われています)と、馬、馬車、そしてテントが地平線を埋め尽くしました。人々は、これから始まるであろう壮絶な競争を前に、期待と興奮、そしてライバルへの敵意がないまぜになった、異様な熱気に包まれていました。境界線には、秩序を維持し、不正な侵入を防ぐために、アメリカ陸軍の騎兵隊が配置されていました。
そして、運命の1889年4月22日、正午。境界線上に配置された騎兵隊が、高らかにラッパを吹き鳴らし、あるいは号砲を空に向けて撃ち放つと、それがスタートの合図となりました。
その瞬間、数万の人々が、まるでダムが決壊したかのように、一斉に境界線を越え、「未割り当ての土地」の中へと怒涛の勢いでなだれ込みました!

そこから先は、想像を絶する土地獲得競争でした。人々は、少しでも良い土地(川や泉に近い場所、木々がある場所、平坦で肥沃そうな土地、将来鉄道が通ったり町の中心になったりしそうな場所など)を確保しようと、馬や馬車を全速力で駆り立て、あるいは自分の足で必死に走りました。速度を稼ぐために、食料や家財道具はおろか、命綱であるはずの水筒さえも投げ捨てて疾走する者もいたと言われています。
巻き上がる砂埃の中、人々は互いを追い抜き、罵り合い、時には妨害し合いました。落馬する人、馬車が横転する事故、人と馬が衝突する危険な場面も随所で見られました。まさに、ルール無用の、混乱と危険、そして人間のむき出しの欲望が渦巻く、カオスのような状況だったのです。
ようやく目当ての土地にたどり着いた人々は、息を切らしながらも、急いで持参した木の杭(stake)を地面に打ち込み、あるいは目印となるものを置いて、その土地(通常160エーカー)の所有権(claim)を主張しました。英語で「権利を主張する」という意味の慣用句「stake a claim」は、まさにこのランドラッシュの光景に由来するとも言われています。
一日で生まれた町と、「スーナー」問題
この狂騒的な土地争奪戦の結果、驚くべきことが起こりました。それまでほとんど人が住んでいなかった原野や草原に、わずか一日のうちに、いくつもの新しい町が、まるで魔法のように出現したのです。
ランドラッシュが始まった日の夕方には、水場や鉄道駅の近くなど、将来性が見込まれる主要な地点には、数千ものテントが張られ、仮設の測量事務所、土地登記所、銀行、雑貨店、食堂、そしてもちろん酒場などが、即席で建てられました。現在のオクラホマ州の州都であるオクラホマシティ(Oklahoma City)や、最初に州都(準州都)が置かれたガスリー(Guthrie)といった主要都市は、まさにこの1889年4月22日に、文字通り「無」から誕生したのです。ガスリーには、ラッシュ当日の夜までに1万人以上の人々が集結し、テントシティを形成したと推定されています。
しかし、この劇的な土地開放劇には、当初から大きな汚点となる問題が存在していました。それは、「スーナー(Sooners)」と呼ばれる、ルール違反者の横行です。
政府が定めた公式ルールでは、指定された開始時刻(4月22日正午)よりも前に、いかなる者も境界線を越えて「未割り当ての土地」に入り、土地の所有権を主張することは固く禁じられていました。これは、参加者全員が同じスタートラインから、公平に競争に参加できるようにするための、最も基本的なルールでした。
にもかかわらず、実際には、非常に多くの人々が、様々な手段を使ってこのルールを破り、開始時間よりも早く(sooner)、密かに境界線を越えて土地の中に侵入し、最も有利と思われる場所(例えば、水辺の良い土地や、町の中心になりそうな区画など)に事前に杭を打ったり、あるいは開始時間まで身を潜めていたりしたのです。これらの不正行為を行った人々は、「スーナー(Sooners)」と呼ばれ、非難の対象となりました。
スーナーの中には、土地の開放計画に事前にアクセスできた政府の測量関係者や、鉄道会社の従業員、あるいは境界線の警備を担当していたはずの騎兵隊員など、その立場を利用して不正を働いた者も少なくなかったと言われています。また、単に抜け駆けを狙った一般の入植者も多数いました。
当然のことながら、スーナーたちの存在は、時間通りにルールを守ってスタートした正直な参加者たちとの間で、土地の所有権を巡る無数の紛争や対立を引き起こしました。「自分が正午きっかりにここに到達して杭を打ったのに、後から『自分の方が先にいた』と主張するスーナーが現れた!」といったケースが頻発し、言い争いは絶えず、時には暴力沙汰や、長引く裁判沙汰にまで発展しました。
皮肉なことに、この「抜け駆け」「ルール違反者」というネガティブな意味合いを持っていた「スーナー」という言葉は、時が経つにつれて、その響きが変化していきます。次第に、「困難な状況の中で機敏に行動する者」「先見の明がある者」「フロンティア精神旺盛な者」といった、むしろポジティブなイメージを帯びるようになったのです。そして現在では、オクラホマ州の公式な愛称(The Sooner State)となり、州を代表するオクラホマ大学のスポーツチーム(Oklahoma Sooners)の名前にもなっているのです。歴史の評価というものは、時に複雑で、そして皮肉なものですね。
西部開拓の光と影:ランドラッシュの遺したもの
1889年4月22日に行われたオクラホマ・ランドラッシュは、アメリカ西部開拓時代の終わりを象徴する、最も有名で劇的な出来事の一つとして、アメリカ史に深く刻まれました。開始の合図と共に数万の人々が未開の土地へとなだれ込み、一夜にして新しい町が誕生するという光景は、まさにアメリカという国家の持つダイナミズムとエネルギー、そして「フロンティア精神」を体現するものとして語り継がれています。このランドラッシュの「成功」(?)を受けて、その後もオクラホマの他のインディアン準州内の土地(例えば、チェロキー・アウトレットなど)で、同様の方式による土地開放が数回にわたって実施され、現在のオクラホマ州の基礎が形作られていきました。
この出来事は、アメリカの「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」、すなわち、アメリカ合衆国が北米大陸全体にその領土を広げ、文明をもたらすことは神によって与えられた明白な運命である、という19世紀に広く信じられた思想を象徴するイベントとしても捉えられています。映画『遥かなる大地へ(Far and Away)』(1992年、トム・クルーズ、ニコール・キッドマン主演) は、この1893年のチェロキー・アウトレットでのランドラッシュをクライマックスシーンとして描いており、その壮大で混沌とした様子を映像で見ることができます。
しかし、この輝かしいフロンティア物語の裏側には、決して忘れてはならない影の部分も存在します。
先住民の土地収奪
最大の問題は、このランドラッシュの舞台となった「未割り当ての土地」が、そもそもアメリカ先住民(ネイティブアメリカン)から、不当な条約や半ば強制的な形で奪われた土地であったという歴史的な事実です。ランドラッシュは、アメリカ政府による先住民の土地の収奪と、彼らの伝統的な生活様式や文化を破壊していったプロセスの、一つの決定的な段階でした。白人入植者の「アメリカン・ドリーム」の実現は、先住民にとっては故郷を失う悪夢の始まりでもあったのです。
不公正な競争
「スーナー」問題が明らかにしたように、この土地獲得競争は、必ずしも公正で平等なものではありませんでした。「早い者勝ち」というルールは、情報やコネを持つ者、あるいはルールを破ることを厭わない者を有利にし、正直者が必ずしも報われるとは限らないという、厳しい現実がありました。多くの紛争や不満を生み出したことも事実です。
1889年のランドラッシュは、アメリカ西部開拓時代の持つ、無限の可能性への希望とフロンティア精神という「光」の部分と、先住民への不正義や、むき出しの競争と混乱といった「影」の部分の両面を、鮮やかに映し出している歴史的な出来事なのです。
まとめ:フロンティアに残る熱狂と教訓
1889年の今日、4月22日正午。インディアン準州の境界線で鳴り響いた号砲は、アメリカ史に残る、空前絶後の土地争奪戦の始まりを告げました。新しい生活と富を求めて、数万の人々が未開の土地へとなだれ込む。その熱狂とエネルギーは、まさにアメリカ西部開拓時代のクライマックスを象徴する光景でした。オクラホマシティやガスリーといった都市が、文字通り一日で地上に出現したという事実は、今もなお、アメリカという国の持つダイナミズムを物語っています。
しかし、その熱狂の裏側には、「スーナー」と呼ばれるルール違反者の横行や、土地の真の所有者であったはずの先住民たちの悲劇がありました。ランドラッシュは、フロンティア精神の輝きを示す一方で、その過程における公正さや、歴史の影の部分についても、私たちに深く考えることを促します。
今日という日に、西部劇の一場面のようなこの劇的な出来事に思いを馳せながら、フロンティアという言葉が内包する、希望と同時に横たわる複雑な歴史の層についても、少し思いを巡らせてみるのはいかがでしょうか。
※英語版のみ(本記事執筆時点)




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