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【4月28日】独裁者の無残な最期──ムッソリーニ処刑の日

今日は何の日?
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この記事のざっくりまとめ
  • ベニート・ムッソリーニ(1883年~1945年)は、20世紀前半にイタリアを率いた政治家であり、ファシズムの創始者として知られる独裁者です。「ドゥーチェ(指導者)」という称号で呼ばれ、強大な権力を握りました。
  • 元々は社会主義者として活動していましたが、第一次世界大戦を機に国家主義(ナショナリズム)へと転向。戦後の混乱期にファシスト党を結成し、1922年の「ローマ進軍」によって首相の座に就きました
  • その後、徐々に独裁体制を強化野党や言論を弾圧する一方で、大規模な公共事業やローマ教皇庁との和解(ラテラノ条約)などで一定の支持も得ました。しかし、次第に攻撃的な外交政策をとり、エチオピア侵攻などを経て、ナチス・ドイツのヒトラーと軍事同盟を結びます
  • 第二次世界大戦に枢軸国側として参戦しますが、イタリア軍は各地で敗北。戦局が悪化すると1943年に失脚・逮捕されました。ドイツ軍に救出され北イタリアに傀儡政権(サロ共和国)を樹立するも、最終的に逃亡を図る中、イタリアのパルチザン(抵抗運動)によって捕らえられ、1945年の今日、4月28日に愛人クラーラ・ペタッチと共に処刑されました

今から80年前の今日、1945年4月28日。第二次世界大戦末期の混乱の中、かつてイタリア国民を熱狂させ、絶対的な権力者として君臨した一人の男が、その劇的な生涯をあまりにも無残な形で終えました。彼の名は、ベニート・ムッソリーニ。「ドゥーチェ(指導者)」と呼ばれ、ファシズムという新しい政治思想を掲げてイタリアを20年以上にわたって支配し、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツと共に世界を大戦の渦に巻き込んだ独裁者です。

彼はどのようにして権力の頂点に上り詰め、なぜ国民を熱狂させ、そして最終的にどのような最期を迎えたのでしょうか? 彼の命日である今日、20世紀の歴史に強烈な光と影を落としたムッソリーニの人生を振り返ってみましょう。

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社会主義者からファシズムの創始者へ

ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini)は、1883年にイタリア北部のロマーニャ地方にあるプレダッピオという小さな町で生まれました。彼の父親は鍛冶屋であり、熱心な社会主義者でした。母親は敬虔なカトリック教徒の小学校教師でした。

若い頃のムッソリーニは、父親の影響を強く受け、自身も熱烈な社会主義者として活動に身を投じます。師範学校を卒業して小学校の教師になったり、ジャーナリストとして社会主義系の新聞で過激な記事を書いたりしました。その扇動的な言動のために何度か逮捕されたり、兵役を逃れるためにスイスへ一時亡命したりと、波乱に満ちた青年期を送りました。しかし、彼は生まれつきの弁舌の才能カリスマ性を持っており、次第にイタリア社会党の中で頭角を現していきます。ついには党の有力な機関紙であった『アヴァンティ!(Avanti! / 前進!の意)』の編集長という重要な地位にまで登りつめました。

しかし、彼の思想は、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、大きな転換点を迎えます。当初、多くの社会主義者と同様に、彼は労働者の国際的な連帯を訴え、戦争には反対の立場でした。ところが、戦争が長期化する中で、彼は次第に「イタリアもこの戦争に参加し、オーストリア=ハンガリー帝国から『未回収のイタリア』と呼ばれる領土(トリエステや南チロルなど)を奪還すべきだ!」という国家主義(ナショナリズム)的な考え方に強く傾倒していくのです。この参戦論を巡って社会党指導部と激しく対立した結果、ムッソリーニは社会党から除名されてしまいます。

社会主義と決別したムッソリーニは、第一次世界大戦にイタリアが参戦すると(1915年)、自らも兵士として従軍しました(前線で負傷しています)。この戦争体験は、彼の国家主義的な思想をさらに強固なものにしたと言われています。

ファシスト党結成とローマ進軍:権力への道

第一次世界大戦が終わった後のイタリアは、深刻な危機に直面していました。戦勝国側に加わったにも関わらず、パリ講和会議で期待したほどの領土拡大が認められなかったことへの国民的な不満(「損なわれた勝利」という感情)。戦後の経済的な混乱、高い失業率、そしてロシア革命(1917年)の影響を受けて活発化する社会主義運動や労働者のストライキ…。社会は不安定化し、多くの人々は既存の政治体制への不信感を募らせ、秩序を回復してくれる強力なリーダーの登場を待ち望んでいました。

この混乱した状況こそ、ムッソリーニにとって絶好の機会でした。1919年、彼はミラノで、国家主義、反議会主義、反社会主義・反共産主義を掲げ、そして第一次世界大戦で国のために戦った退役軍人などを中心とする、新しい政治組織「イタリア戦闘者ファッシ」を結成します。「ファッシ」とは、古代ローマで執政官の権威の象徴とされた、斧の周りに木の棒を束ねた「束桿(そっかん)」に由来する言葉で、「団結」や「力」を意味します。これが、20世紀の世界を大きく揺るがすことになる「ファシズム」運動の産声でした。

ムッソリーニのファシズム運動は、当初は小さな勢力でしたが、巧みな演説とプロパガンダ、そして特徴的な黒いシャツを制服とした行動隊(「黒シャツ隊」)による、時には暴力的な実力行使(社会主義者や労働組合の事務所への襲撃、ストライキの破壊など)を通じて、急速に支持を拡大していきます。彼らは、「国家の秩序を回復し、イタリアを再び偉大な国にする」と訴え、戦争に不満を持つ退役軍人や国家主義者だけでなく、社会主義革命を恐れる地主や資本家、そして既存の政治に失望していた中間層など、幅広い層からの支持を集めることに成功しました。(ファシスト党は1921年に正式な政党となります。)

そして1922年10月、ムッソリーニは、ついに権力を掌握するための最後の大勝負に出ます。それが有名な「ローマ進軍」です。彼は、全国から集結させた数万人のファシスト党員(黒シャツ隊)に対し、首都ローマへの進軍を命令し、当時のイタリア政府に対して、武力を背景に政権の譲渡を迫ったのです。

時の首相ルイージ・ファクタは、この事態に対し、戒厳令を布告して軍隊の力でファシストの進軍を阻止しようとしました。しかし、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、ファシスト党との間で本格的な内戦が起こり、国が分裂することを恐れました。また、国王自身も、当時の不安定な政局に嫌気がさしており、ムッソリーニに政権を委ねれば、かえって国の秩序が回復するかもしれない、という期待も抱いていたと言われています。国王は、ファクタ首相が提出した戒厳令の承認を拒否し、逆にムッソリーニに対して組閣(首相になること)を要請するという、驚くべき決断を下したのです。

こうして、ムッソリーニは、直接的な武力衝突を経ることなく、しかし暴力的な脅迫を背景に、形式的には国王からの任命を受けるという形で、1922年10月31日、イタリア王国の首相に就任しました。わずか39歳での首相就任でした。

独裁者「ドゥーチェ」の誕生

首相の座に就いたムッソリーニは、当初はファシスト党以外の政党とも連立を組むなど、比較的穏健な姿勢を見せていました。しかし、彼の真の狙いは、イタリアにおける絶対的な権力を確立することにありました。彼は、議会を通じて選挙法を自党に有利なように改正し、そして徐々に、しかし着実に、イタリアをファシスト党による一党独裁国家へと変えていったのです。

その過程で大きな転機となったのが、1924年に起こった「マッテオッティ事件」です。社会主義の有力な指導者であったジャコモ・マッテオッティが、ファシスト党による選挙不正や暴力を議会で厳しく批判した後、何者か(ファシスト党の過激派とみられています)によって誘拐され、殺害されてしまったのです。この事件はイタリア中に大きな衝撃を与え、ムッソリーニ政権は最大の危機に直面しました。

しかし、ムッソリーニは、この危機を逆に利用しました。彼は、事件への関与を否定しつつも、国家の秩序を維持するためには強力な指導力が必要であると訴え、1925年1月、議会において自らの独裁権の確立を宣言するのです。

これ以降、イタリアにおける自由主義的な制度は次々と破壊されていきました。

  • あらゆる野党の活動は非合法化され、解散させられました。
  • 新聞やラジオといったメディアは厳しく統制され、政府に批判的な言論は許されなくなりました。
  • 秘密警察(OVRA)が組織され、反ファシスト的な活動を行う人々を監視し、逮捕・投獄しました。多くの政敵や知識人が、イタリアから亡命を余儀なくされました。
  • ファシスト党が国家と一体化し、あらゆる組織(労働組合、青少年団体、文化団体など)がファシスト党の統制下に置かれました。
  • ムッソリーニ自身は、自らを「ドゥーチェ(Il Duce)」と称するようになります。これはイタリア語で「指導者」あるいは「統帥」を意味する言葉で、古代ローマの独裁官(ディクタトル)を意識したものでした。彼の肖像はあらゆる場所に飾られ、彼の言葉は絶対的なものとされ、ファシスト党による大衆動員やプロパガンダを通じて、強力な個人崇拝が作り上げられていきました。バルコニーから広場に集まった大観衆に向かって、身振りを交えながら力強く演説するムッソリーニの姿は、彼の独裁体制を象徴するイメージとなりました。

経済政策においては、国家が産業や労働を調整・統制する「コーポラティズム(協同体主義)」という体制を推進しました。失業対策として、有名な高速道路「アウトストラーダ」の建設や、ポンティーネ湿地(ローマ近郊の広大な湿地帯)の干拓といった、大規模な公共事業を次々と実施しました。これらの政策は、一部ではイタリアのインフラ整備を進め、失業者を減らす効果もあったと評価されることもありますが、全体としては、イタリア経済の根本的な問題を解決するには至らず、その近代化は他の欧米先進国に比べて遅れたままでした。

外交面で、ムッソリーニの独裁体制にとって大きな成功となったのが、1929年に締結された「ラテラノ条約」です。これは、1870年にイタリア王国がローマを併合して以来、約60年間にわたって続いていたイタリア国家とローマ教皇庁(カトリック教会の総本山)との間の深刻な対立関係(「ローマ問題」と呼ばれていました)に終止符を打つ、歴史的な和解でした。この条約により、イタリアはバチカン市国を独立した主権国家として承認し、カトリック教会に様々な特権を認めました。これにより、ムッソリーニは、カトリック教徒が圧倒的多数を占めるイタリア国民からの絶大な支持と、国際的な名声を獲得することに成功したのです。

ヒトラーとの同盟、そして破滅的な戦争へ

1930年代に入ると、国内で絶対的な権力を確立したムッソリーニの関心は、イタリアの国際的な地位向上と、領土の拡大へと向かっていきます。彼は、かつての古代ローマ帝国の栄光を現代に復活させるという、壮大な野望を抱いていました。

その野望を実現するため、彼の外交政策は次第に攻撃的で、拡張主義的なものへと変化していきます。

エチオピア侵攻(1935年~1936年)

ムッソリーニは、国際社会(国際連盟)からの強い非難や経済制裁を無視して、アフリカの数少ない独立国であったエチオピアに対して、近代兵器を用いた残虐な侵略戦争を開始し、これを併合してしまいます。この侵略行為は、イタリアの国際的な孤立を深める結果となりました。

ナチス・ドイツとの急速な接近

国際的に孤立する中で、ムッソリーニが急速に連携を深めていったのが、同じくヴェルサイユ体制(第一次世界大戦後の国際秩序)の打破を目指し、ファシズム(ナチズム)という類似したイデオロギーを掲げる、ドイツのアドルフ・ヒトラーでした。当初、ムッソリーニは後から現れたヒトラーを、自分の模倣者としてやや見下していた節もありましたが、ナチス・ドイツの急速な国力増強と、ヒトラーの大胆な外交政策を目の当たりにするうちに、両者は互いを重要なパートナーと見なすようになります。彼らは共に、スペイン内戦(1936年~1939年)でフランコ将軍の反乱軍を支援し、「反共」という共通の旗印の下で連携を深めました。そして、1939年5月には、両国の間には「鋼鉄協約」と呼ばれる、攻撃的な性格を持つ正式な軍事同盟が結ばれました。さらに1940年9月には、日本を加えた「日独伊三国同盟」が締結され、世界を第二次世界大戦へと導くことになる、枢軸国(Axis powers)陣営が形成されたのです。

第二次世界大戦への参戦(1940年)

1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発した際、イタリアはまだ軍事的な準備が全く整っていなかったため、ムッソリーニはしばらく「非交戦」の立場を表明し、様子見を決め込んでいました。しかし、1940年の春、ナチス・ドイツ軍が電撃戦によってデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、そしてフランスをも次々と打ち破り、その圧倒的な強さを見せつけると、ムッソリーニは、この「勝利のバス」に乗り遅れてはならない、と焦り始めます。そして、1940年6月10日、すでにドイツ軍によってパリ陥落寸前まで追い詰められていたフランスと、孤立無援で戦うイギリスに対して、イタリアは宣戦布告し、枢軸国側として本格的に第二次世界大戦へと参戦しました。

軍事的な失敗の連続

しかし、ムッソリーニのこの判断は、イタリアにとって破滅的な結果をもたらすことになります。イタリア軍の装備は旧式で、工業生産力も低く、軍の指導部の能力や兵士の士気も決して高いとは言えませんでした。イタリア軍は、単独で挑んだギリシャへの侵攻(1940年)で手痛い反撃を受けて失敗し、ドイツ軍の助けを借りる始末。北アフリカ戦線でもイギリス軍に大敗を喫し、東部戦線(対ソ連戦)やバルカン半島でも、イタリア軍は十分な戦果を上げることができませんでした。結果的に、イタリアの参戦は、同盟国であるはずのドイツの足を引っ張ることの方が多かった、と評価されています。

失脚、救出、そして無残な最期(1945年4月28日)

戦争が長期化し、枢軸国の敗色が濃厚になるにつれて、イタリア国内ではムッソリーニの指導力に対する不満と批判が急速に高まっていきました。そして1943年夏、連合軍がイタリア本土のシチリア島に上陸作戦を成功させると、ついにイタリアの政局は大きく動きます。

失脚と逮捕(1943年7月)

連合軍の上陸と、首都ローマへの空襲という危機的な状況の中で、ファシスト党の最高意思決定機関であった「ファシズム大評議会」が、実に数年ぶりに招集されました。そして、1943年7月24日から25日にかけての深夜、長時間の激しい議論の末、大評議会はムッソリーニの指導責任を問い、彼から軍の指揮権を国王に返上させることを求める不信任決議を、賛成多数で可決したのです。これを受けて、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、翌7月25日、ムッソリーニを首相官邸に呼び出し、首相からの解任を通告し、その場で逮捕・監禁しました。20年以上にわたってイタリアを支配してきたムッソリーニの独裁体制は、あまりにもあっけなく崩壊したのです。ムッソリーニの後任には、ピエトロ・バドリオ元帥が任命され、イタリア新政府は間もなく連合国との休戦交渉を開始しました(9月8日に無条件降伏)。

ドイツ軍による救出劇(1943年9月)

逮捕されたムッソリーニは、イタリア国内のいくつかの場所を転々とさせられた後、最終的に中部イタリアのアブルッツォ山脈の山頂にあるホテル「カンポ・インペラトーレ」に幽閉されました。しかし、彼の同盟者であったヒトラーは、ムッソリーニの失脚を許しませんでした。ヒトラーは、ドイツ軍の精鋭特殊部隊(オットー・スコルツェニー親衛隊少佐が指揮)に対し、ムッソリーニの救出を命令。1943年9月12日、スコルツェニー率いる部隊は、グライダーを使った大胆な奇襲作戦(グラン・サッソ襲撃)によって、ムッソリーニを無傷で救出することに成功しました。

傀儡政権「サロ共和国」

ヒトラーによって救出されたムッソリーニは、ドイツの後押しを受けて、ドイツ軍が占領していた北イタリアのガルダ湖畔の町サロを首都とする、新しいファシスト政権「イタリア社会共和国(Repubblica Sociale Italiana, RSI)」の樹立を宣言しました。これは通称「サロ共和国」と呼ばれます。しかし、この政権は完全にナチス・ドイツの傀儡(かいらい)国家であり、ムッソリーニ自身にはもはやかつてのような実権はほとんど残っていませんでした。彼の支配地域では、ドイツ軍によるイタリア市民への残虐行為や、ファシストと、連合国を支持するパルチザン(反ファシスト抵抗運動のゲリラ)との間で、激しい内戦が繰り広げられるという悲惨な状況が続きました。

逃亡、そして最期(1945年4月)

1945年の春、連合軍が北イタリアへと進撃し、ドイツ本国の敗北も目前に迫ると、サロ共和国は完全に崩壊します。追い詰められたムッソリーニは、最後の望みを託し、長年の愛人であったクラーラ・ペタッチ(Clara Petacci)や、少数の忠実な部下と共に、ドイツ兵の軍服を着て身分を偽り、トラックの荷台に隠れて、中立国であるスイスへの逃亡を図りました。

しかし、1945年4月27日、スイス国境に近い北イタリアのコモ湖畔にあるドンゴという小さな村で、彼らが乗っていたドイツ軍の輸送部隊は、イタリアのパルチザン部隊によって検問を受け、停止させられました。パルチザン兵の一人が、トラックの荷台に隠れていたムッソリーニの顔を見破り、彼はその場で逮捕されてしまいました。愛人のクラーラ・ペタッチも、自らムッソリーニと運命を共にすることを選び、一緒に拘束されました。

そして翌日、1945年の今日、4月28日。ムッソリーニとクラーラ・ペタッチ、そして捕らえられていた他のファシスト党幹部数名は、パルチザン部隊によって近くのメッツェグラという村のジュリーノ地区へ連行されました。そこで彼らは、正式な裁判手続きを経ることなく、その場で銃殺刑に処せられたのです。

さらに、彼らの遺体は翌日、ミラノへと運ばれ、かつてファシスト党が勢力を誇示したロレート広場にある、ガソリンスタンドの鉄骨の梁(はり)から、逆さ吊りにされて民衆の前に晒されるという、非常に無残な仕打ちを受けました。かつて「ドゥーチェ!」と熱狂的に歓呼したはずの民衆は、今度は怒りと憎しみを込めて、独裁者の遺体に唾を吐きかけ、石を投げつけ、さらに損壊したと伝えられています。ファシズムの創始者の最期は、あまりにも惨めなものでした。

まとめ:ファシズムの創始者の栄光と没落

ベニート・ムッソリーニ。彼は、第一次世界大戦後の混乱と社会不安の中から現れ、巧みな演説とカリスマ性、そして暴力をも厭わない行動力で、イタリア国民を熱狂させ、国家の全権を掌握した、20世紀を代表する独裁者の一人でした。彼が創始した「ファシズム」という政治思想と体制は、イタリア国内だけでなく、ナチス・ドイツをはじめとする世界各国の権威主義・全体主義体制に大きな影響を与えました。

一時期、彼はイタリアに(見かけ上の)秩序と安定をもたらし、国民的な事業を推進し、国際社会でもある程度の存在感を示したことで、多くの人々から熱狂的な支持を集めました。しかし、その独裁体制は、個人の自由を奪い、反対者を容赦なく弾圧する暗い側面を持っていました。そして何よりも、彼自身の過剰な野心と、ヒトラー率いるナチス・ドイツとの危険な同盟関係が、イタリアを第二次世界大戦という破滅的な戦争へと引きずり込み、最終的には国を荒廃させ、彼自身も国民の手によって無残な最期を遂げるという、悲劇的な結末を迎えることになったのです。

今日、4月28日は、そのベニート・ムッソリーニが処刑され、ファシズムの時代が一つの終わりを告げた日です。彼の生涯は、カリスマ的な指導者がいかにして大衆の心を掴み、強大な権力を築き上げ、そしてその権力が暴走した時に、いかに国と人々を破滅へと導きうるのか、という、歴史の重い教訓を私たちに示しています。現代イタリアにおいても、そして世界においても、ムッソリーニと彼が生み出したファシズムの時代に対する評価は、依然として複雑で、そして常に議論され続けるべきテーマであり続けているのです。

※本記事では英語版も参考にしました

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