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【誤解だらけ?】ギロチンの名前の由来、ジョゼフ・ギヨタン博士の数奇な運命

地理・歴史
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この記事のざっくりまとめ
  • ジョゼフ=イニャス・ギヨタンは、フランス革命期の有名な医師であり、政治家でもありました。「ギロチン」という断頭台の名前の由来となった人物として知られています。
  • しかし、彼自身がギロチンを発明したわけではありません。彼は、当時の残酷で不平等な死刑執行を改善するため、人道的な観点から「身分に関係なく、苦痛の少ない機械装置で死刑を行うべきだ」と提案した改革者でした。
  • 彼の意図は処刑の苦痛軽減と平等化でしたが、皮肉にも彼の名前は恐怖政治時代の大量処刑の象徴となってしまいました
  • よくある誤解ですが、「ギヨタンは自分が提案したギロチンで処刑された」というのは全くの嘘! 彼は革命後も生き延び、最終的には病気で亡くなりました。

「ギロチン」という言葉を聞くと、多くの人がフランス革命の嵐が吹き荒れた時代の、あの断頭台の冷たく光る刃を思い浮かべるのではないでしょうか。そして、その名前の主であるジョゼフ・ギヨタン博士については、「自分が開発した処刑具で、自らも処刑された悲劇の人物」といったイメージが、まことしやかに語られることさえあります。

しかし、歴史の真実は、しばしばそうしたドラマチックな俗説とは異なります。今回は、ギロチンにその名を残すことになった医師、ジョゼフ=イニャス・ギヨタンの、知られざる実像と、歴史の皮肉に翻弄された彼の人生を探ってみましょう。

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ギヨタン博士とは?医師、そして革命期の政治家

ジョゼフ=イニャス・ギヨタン(Joseph-Ignace Guillotin, 1738-1814)は、18世紀フランスの著名な医師でした。パリ大学で医学部の教授を務めるなど、学識と人望を兼ね備えた人物として知られていました。

彼は、医学の分野でも先進的な考えを持っており、当時ヨーロッパで話題となっていたフランツ・メスメルによる「動物磁気(メスメリズム)」という治療法の科学的有効性を調査する委員会に参加し、その効果に疑問を呈する報告をしています。また、天然痘を予防するためのワクチン接種(種痘)の重要性を認識し、その普及にも尽力しました。

1789年、フランス全土を揺るがすフランス革命が勃発すると、ギヨタンは医師としての活動に加え、政治の世界にも足を踏み入れます。彼は市民階級である第三身分の代表として全国三部会に選出され、その後、憲法制定国民議会の議員としても活動しました。政治的な立場としては、過激な変革よりも穏健な改革を支持する人物だったようです。

人道的な死刑を求めて:ギヨタンの提案

ギヨタンの名前が歴史に深く刻まれることになったのは、彼が国民議会で行った、ある提案がきっかけでした。1789年10月、彼はフランスの死刑制度に関する改革案を提出します。

当時のフランスでは、死刑の執行方法が、罪人の身分によって大きく異なっていました。貴族であれば、比較的苦痛が少ないとされる(ただし、執行人の腕次第で悲惨な結果になることもあった)斬首刑。一方、平民であれば、より苦痛が長く、不名誉とされた絞首刑が一般的でした。さらに、罪状によっては火あぶり車裂きの刑といった、極めて残酷な処刑方法も存在し、それらは公開の場で見世物として行われることも珍しくありませんでした。

人道主義者であったギヨタン医師は、このような身分による不平等で、かつ残虐極まりない死刑執行のあり方を強く問題視しました。彼は議会で、「罪人は、どのような身分であれ、法律の前では平等であるべきだ。したがって、死刑執行も、すべての者に対して同一の方法で行われるべきであり、その方法は可能な限り迅速で、苦痛を与えないものであるべきだ」と訴えました。

そして、その具体的な手段として、彼は「単純な機械装置 (un simple mécanisme)、つまり、刃を落として首を切断する機械の使用を提案したのです。ここで重要なのは、彼の目的はあくまで死刑執行における苦痛と残虐性をなくし、法の下の平等を確立することにあった、ということです。

「ギロチン」誕生と名前の皮肉

ギヨタン博士の提案は、国民議会で議論を呼び、最終的に採用されることになります。そして、新しい処刑装置の開発が進められました。

しかし、ここで明確にしておくべきは、ギヨタン自身がこの断頭台を発明したわけではないということです。同様の原理を持つ処刑装置は、実は彼が提案するずっと以前から、スコットランドの「メイデン (The Maiden)」やイタリアの「マンナイア (Mannaia)」など、ヨーロッパ各地に存在していました。

フランスで新たに開発された断頭台は、当初、設計に助言を与えたとされる外科医アントワーヌ・ルイの名前にちなんで「ルイゾン (Louison)」や「ルイゼット (Louisette)」と呼ばれていました。装置の実際の製作者は、ドイツ出身でパリに住んでいたチェンバロ(鍵盤楽器)製作者のトビアス・シュミットという人物だったと言われています。

では、なぜこの装置が「ギロチン」と呼ばれるようになったのでしょうか? それは、ギヨタン博士の提案が、この装置が正式に採用される直接的なきっかけとなったからです。報道機関や民衆が、半ば皮肉や冗談を込めて、提案者の名前を冠して「ギヨティーヌ (Guillotine)」と呼び始めたのが広まり、やがてその名称が定着してしまったのです。

ギヨタン博士自身は、自分の名前がこの恐ろしい処刑装置と結びつけられ、あたかも自分が発明者であるかのように世間で語られることを、生涯にわたって非常に不快に思い、苦悩していたと伝えられています。

恐怖政治とギヨタンのその後

フランス革命は、その後、ますます過激な道を突き進み、1793年から1794年にかけては、マクシミリアン・ロベスピエールを中心とするジャコバン派による「恐怖政治」の時代を迎えます。

皮肉なことに、ギヨタンがより人道的な死刑執行を目指して導入を後押ししたギロチンは、この恐怖政治の時代において、「革命の敵」とみなされた王族、貴族、聖職者、そして一般市民までもを、迅速かつ効率的に処刑するための道具として、パリの広場でフル稼働することになってしまいました。人道的配慮から生まれたはずの装置が、大量殺戮の象徴となってしまったのです。

ギヨタン博士自身も、その穏健な政治姿勢から、恐怖政治の末期には疑いの目を向けられ、一時的に投獄される憂き目に遭います。もしロベスピエールの失脚(テルミドールのクーデター)があと少し遅れていたら、彼もギロチンの露と消えていたかもしれません。幸運にも、彼は処刑を免れました。

革命の嵐が過ぎ去り、ナポレオンが権力を握る時代になると、ギヨタンは政治の世界からは完全に身を引き、再び医師としての本来の仕事に専念しました。特に、天然痘ワクチンの接種を推進する委員会の議長を務めるなど、公衆衛生の向上に貢献し、人々からの尊敬を集め続けたと言われています。

「ギロチンで処刑された」は真っ赤な嘘!

ギヨタン博士にまつわる最も有名な俗説、「彼は自分が提案(発明)したギロチンで処刑された」という話。これは、歴史ドラマや逸話として面白おかしく語られがちですが、完全な間違い、全くの事実無根です。

ジョゼフ=イニャス・ギヨタンは、フランス革命も、ナポレオン時代も生き抜き、1814年3月26日、パリの自宅で病気のため亡くなりました。死因は、肩にできた「癰(よう)」または「カルブンケル」と呼ばれる、化膿を伴う悪性の腫物だったと記録されています。75歳での、比較的穏やかな最期でした。

しかし、「ギロチン」という言葉と、それにまつわる血なまぐさいイメージは、あまりにも強烈でした。彼の死後も、その名前は家族にとって重荷となり続けました。一族はナポレオン政府に対し、処刑装置の名前を変えるか、自分たちの姓を変える許可を求めましたが、聞き入れられませんでした。そのため、後にギヨタン博士の子孫の一部は、自ら別の姓を名乗るようになったと言われています。

まとめ:歴史の皮肉に翻弄された人道主義者

ジョゼフ・ギヨタン博士の生涯を振り返ると、彼は決して冷酷な処刑具の発明者ではなく、むしろ当時の非人道的な慣習を改めようとした、一人の誠実な医師であり、改革者であったことがわかります。彼の提案の根底には、苦痛の軽減と法の下の平等という、人道主義的な動機がありました。

しかし、歴史の激しい流れの中で、彼の意図は歪められ、その名前は彼の本意とは全く異なる、恐怖と死の象徴として記憶されることになってしまいました。さらに、「ギロチンで死んだ」という根も葉もない俗説まで広まり、彼の真の姿は長く誤解されてきました。

ギヨタン博士の物語は、善意から始まったことであっても、時代の大きなうねりの中で、いかに予期せぬ、そして皮肉な結果を招くことがあるかを示す、一つの歴史的な教訓と言えるのかもしれません。

※本記事では英語版も参考にしました

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