- 1900年のパリオリンピックは、近代オリンピックの歴史の中で2回目の夏季大会で、1900年の今日、5月14日に開幕しました。
- この大会は、同じ年にパリで開催されていた万国博覧会の付属行事として行われたため、オリンピックとしての独立性が低く、運営も混乱しがちでした。大会期間も5ヶ月以上と非常に長く、多くの選手は自分がオリンピックに参加していることさえ知らなかったと言われています。
- しかし、歴史的に見ると非常に重要な大会でもありました。それは、女性が初めてオリンピックに参加し、競技を行った記念すべき大会だからです。テニスやゴルフなどで女性選手が活躍しました。
- また、この大会では、魚釣り、モーターボート、気球、鳩レース、水中水泳、障害物競泳など、今では考えられないようなユニークで風変わりな競技がたくさん実施されたことでも知られています。
- メダルも金・銀・銅ではなく、カップや物品が賞品として贈られることが多く、近代オリンピック黎明期の試行錯誤と混乱ぶりを象徴する大会でした。
今から125年も昔、1900年の今日、5月14日。花の都パリで、第2回となる近代オリンピック競技大会が、その長い長い幕を開けました。1896年にギリシャ・アテネで復活した第1回近代オリンピックの成功を受け、オリンピックの父と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵の母国フランスでの開催ということで、大きな期待が寄せられていました。
しかし、この1900年のパリオリンピックは、良い意味でも、そして少し悪い意味でも、オリンピックの歴史の中で非常にユニークで、ちょっぴり風変わりで、そしてある意味「忘れられた」大会として、後世に記憶されることになります。
今回は、そんな1900年パリオリンピックの、ちょっと変わった、でも興味深いお話をご紹介しましょう。
万博の「おまけ」? 長すぎたオリンピック

フェンシング競技のポスター
1900年のパリオリンピックが、なぜこれほどまでにユニークで、そして混乱した大会になってしまったのか? その最大の理由は、このオリンピックが、当時パリで盛大に開催されていた「1900年パリ万国博覧会」の、いわば付属行事、アトラクションの一つとして位置づけられてしまったことにあります。
近代オリンピックの創始者であるフランスの教育者、ピエール・ド・クーベルタン男爵は、オリンピックを独立した、スポーツの力を通じて世界平和と青少年の育成を目指す、崇高な祭典として盛大に開催したいと願っていました。しかし、万博の主催者たちは、オリンピックを、万博を盛り上げるための一つの「余興」や「国際的な競技会」程度にしか考えていなかったようです。クーベルタン男爵のオリンピックに対する情熱と、万博主催者側の思惑の間には、大きな隔たりがありました。
その結果、1900年のパリオリンピックは、次のような奇妙な特徴を持つ大会となってしまいました。
大会期間が、とにかく長い!
今のオリンピックは、だいたい2週間から3週間程度の期間に集中して開催されますよね。ところが、このパリオリンピックの競技は、万国博覧会の開催期間(4月~11月)に合わせて、なんと5ヶ月以上(1900年5月14日~10月28日)にもわたって、まるで万博の様々なイベントの合間に、だらだらと行われたのです。これでは、大会全体の一体感や盛り上がりに欠けてしまいます。
「オリンピック」の名前が、どこにもない!?
さらに驚くべきことに、万博の宣伝が最優先されたため、この大会の公式ポスターやプログラム、そして当時の報道などには、「オリンピック」という言葉がほとんど使われず、「万国博覧会国際体育・スポーツ競技会」といった、非常に長くて分かりにくい名称で呼ばれることが多かったのです。
そのため、この大会に参加した選手の中には、自分が歴史的な「第2回オリンピック」に出場しているとは最後まで気づかなかった、という人もいたほどだと言われています。彼らは、単に万博の一環として行われる国際的なスポーツ大会に参加している、と思っていたのかもしれません。
運営も、会場も、なんだかバラバラ……
競技のスケジュールは二転三転し、会場もパリ市内のあちこちに分散していました。しかも、その競技環境も、お世辞にも良いとは言えない場所が多かったようです。
例えば、陸上競技はブローニュの森にあるラシン・クラブ・ド・フランスの芝生のグラウンドで行われ(トラックが不整地だったり、木が邪魔だったりしたとか)、水泳競技はなんとセーヌ川(!)で行われました(川の流れがあったり、水が冷たくて汚れていたりしたそうです)。やり投げやハンマー投げの選手は、観客に当たりそうになったり……と、運営面でも多くの混乱や不備があったと伝えられています。
それでも歴史的な一歩。女性アスリートの初参加!
こんな、ちょっと残念なエピソードが多い1900年パリオリンピックですが、その一方で、オリンピックの歴史において、非常に重要で、輝かしい「最初の一歩」が記された大会でもありました。
それは、女性が初めてオリンピックに参加し、競技を行ったことです!
古代オリンピックは、ご存知の通り女人禁制であり、1896年にアテネで開催された第1回近代オリンピックも、参加者は男性のみでした。クーベルタン男爵自身も、当初は女性のオリンピック参加には消極的だったと言われています。
しかし、この1900年のパリ大会では、時代の変化もあってか、テニス、ゴルフ、セーリング(ヨット)、クロッケー(ゲートボールの原型のような球技)、そして馬術といったいくつかの競技で、ついに女性選手の参加が認められたのです。

記録によれば、22人の女性アスリートがこの大会に参加したとされています。そして、テニスの女子シングルスと混合ダブルスで優勝したイギリスのシャーロット・クーパー選手は、近代オリンピック史上初の女性金メダリスト(当時は金メダルではなく、カップや他の物品が賞品として贈られることが多かったのですが)として、その名を歴史に輝かしく刻んでいます。
まだまだ参加できる競技も少なく、参加人数もごくわずかでしたが、女性がオリンピックという世界最高峰のスポーツの舞台で活躍する道が、このパリ大会から始まったということは、非常に大きな意義を持つ出来事でした。
えっ、こんな競技も? パリ大会のユニークすぎる種目たち

1900年パリオリンピックが、後世まで「伝説の大会」として語り継がれる(そして、時には笑いのネタにされる)もう一つの大きな理由が、そのあまりにもユニークで、今ではちょっと考えられないような競技種目の数々です。万博の「余興」という側面もあったためか、あるいはオリンピックというものがまだ始まったばかりで手探り状態だったためか、当時のヨーロッパで人気があった(あるいは、単にフランスらしい「お遊び」的な)様々な競技が、オリンピックの種目(あるいはそれに準ずるもの)として、真面目に行われていたのです。
いくつか、その驚きの「珍競技」をご紹介しましょう。
- 魚釣り
なんと、セーヌ川で魚釣りの腕前を競う、というのどかな競技がありました。数カ国から参加者が集まり、釣った魚の総重量や数などで勝敗を決めたそうです。(ただし、現在の国際オリンピック委員会(IOC)は、この魚釣りをオリンピックの公式競技としては正式に認めていません。) - モーターボート・レース
20世紀初頭に登場したばかりの新しい乗り物、エンジン付きのモーターボートによるレースも行われました。(これも後に公式競技からは外れます。) - 気球
熱気球やガス気球を使い、飛行距離、飛行時間、そして目標地点への到達の正確さなどを競う、という優雅で(しかし危険も伴う)競技。 - 鳩レース
訓練された伝書鳩を遠くから放ち、自分の鳩舎(きゅうしゃ)にどれだけ早く戻ってくるか、その帰巣時間を競う、という、これまたのどかで牧歌的な競技も。 - 水中水泳
プール(実際にはセーヌ川ですが)で、どれだけ長く潜水し、どれだけ遠くまで水中で泳げるかを競いました。しかし、競技中は選手が水中に潜ってしまうため、観客からは全く様子が見えず、あまり盛り上がらなかった、という逸話も残っています。 - 障害物競泳
200メートルを泳ぐ間に、水面に浮かべたポール(丸太のようなもの)を乗り越えたり、水中に並べられたボートの下をくぐり抜けたりしなければならない、という、まるで水上アスレチックのような過酷な(そしてコミカルな?)水泳競技。 - その他にも、まだまだたくさん……
クリケット(イギリスや英連邦諸国で人気の球技)、クロッケー(芝生の上で木槌を使ってボールをゲートに通す球技)、ポロ(馬に乗って行う団体球技)、そしてなんと「綱引き」(これは数大会後まで正式競技でした!)、さらにはフランスやスペインのバスク地方の伝統球技である「バスク・ペロタ」など、今ではオリンピックではお目にかかれない(あるいは復活の動きがあるものも?)多くのスポーツが、この1900年パリ大会では、正式競技、あるいは公開競技(デモンストレーション競技)として実施されました。

これらの競技の多くは、このパリ大会限り、あるいはその数回後にはオリンピックの舞台から姿を消してしまいましたが、当時のヨーロッパにおけるスポーツ文化の多様性や、まだ「オリンピックとは何か」というものが固まっていなかった、黎明期のオリンピックの自由な(あるいは混沌とした?)雰囲気を、私たちに生き生きと伝えてくれます。
メダルもバラバラ? 近代オリンピック黎明期の姿
1900年のパリオリンピックは、その運営方法や競技種目だけでなく、勝者への褒賞のあり方も、現代のオリンピックとは大きく異なっていました。
今では、オリンピックの勝者には、1位に金メダル、2位に銀メダル、3位に銅メダルが授与されるのが当たり前ですよね。しかし、この金・銀・銅のメダル制度が確立されたのは、もう少し後の大会(次の1904年セントルイス大会からと言われます)からのことでした。
この1900年のパリ大会では、
- メダルのデザインが、競技ごとにバラバラで、統一されていませんでした。
- 優勝者には、金メダルではなく、銀メダル(あるいは銀に金メッキを施した「銀ギルトメダル」)、そして2位の選手に銅メダルが与えられ、3位の選手には何もなし、というケースが多かったようです。純粋な金メダルは、この大会ではほとんど授与されなかったと言われています。
- さらに、メダルの代わりに、豪華なトロフィーやカップ、あるいは絵画やブロンズ像といった美術工芸品、さらには現金や、なんと食料品(!)といった、様々な物品が賞品として与えられることも、ごく普通に行われていたようです。これも、大会全体が万国博覧会の付属行事であり、各競技がばらばらの組織によって運営されていたことの表れでしょう。
また、大会全体の公式な開会式や閉会式も、はっきりとした形では行われなかったとされています。クーベルタン男爵は、オリンピックを荘厳な儀式で飾りたいと考えていましたが、万博の影ではそれも叶いませんでした。
まとめ:混乱の中の「最初の一歩」たち
1900年の今日、5月14日にその長い会期を開始した、第2回パリオリンピック。それは、近代オリンピックの父、クーベルタン男爵が描いた理想とは裏腹に、巨大な万国博覧会の陰に隠れてしまい、運営は混乱し、多くの参加選手にとっては自分が歴史的なオリンピック競技に参加しているという自覚さえも薄い、まさに手探り状態の、試行錯誤の大会でした。
しかし、そんな混乱と未整備の中にも、未来へと繋がる、いくつかの重要な「最初の一歩」が、確かに刻まれた大会でもありました。
- 何よりも、女性が初めてオリンピックの舞台に登場し、その能力を世界に示したこと。
- まだ黎明期ではあったものの、様々な国から選手が集い(24カ国から約1000人の選手が参加したとされます)、スポーツを通じた国際的な交流の可能性が示されたこと。
- そして、そのあまりにもユニークで多様な(時には奇妙な)競技種目の数々は、オリンピックというイベントが、いかに時代と共に変化し、種目を選び、そして洗練されてきたかを、私たちに教えてくれます。
1900年のパリオリンピックは、近代オリンピックがまだ生まれたばかりの「揺籃期(ようらんき)」にあり、多くの課題を抱えながらも、未来への大きな可能性を秘めて成長していく、その過渡期の姿を、ありのままに映し出している、貴重な歴史の一ページと言えるでしょう。そして、このパリでの経験と反省が、その後のオリンピックをより組織的で、より競技性の高い、そしてより世界的な祭典へと発展させていくための、大切な教訓となったのかもしれません。
※本記事では英語版、フランス語版も参考にしました




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