- 「ノーベル症(Nobel disease / ノーベル病)」とは、主に科学分野などのノーベル賞受賞者の一部が、受賞後(特に晩年)、自身の専門分野から大きく外れた、奇妙で、時には非科学的な(疑似科学的な)アイデアや理論を熱心に信じ込み、主張するようになる傾向を指す、俗語であり、少し皮肉を込めた表現です。(正式な病名ではありません!)
- なぜこのようなことが起こるのか? 原因は一つではありませんが、ノーベル賞受賞による過剰な自信(専門外でも自分は分かるとの思い込み)、既存の権威への反発心、加齢による思考の変化、あるいは周囲が間違いを指摘しにくい状況などが考えられています。
- 具体例として、ビタミンCの大量摂取に固執したライナス・ポーリング(化学賞・平和賞)、HIV/エイズに関する定説を否定したカリー・マリス(化学賞)、晩年に非科学的な水の理論や反ワクチン的な主張をしたリュック・モンタニエ(医学賞)などが挙げられることがあります。
- ただし、「ノーベル症」という言葉は安易なレッテル貼りに注意が必要です。大多数の受賞者は素晴らしい貢献を続けていますし、専門外で間違うことは誰にでもあり得ます。大切なのは、発言者の権威(ノーベル賞受賞者であること)に惑わされず、主張の内容そのものを冷静に吟味することです。
「ノーベル賞」――科学、文学、平和などの分野で、人類に計り知れないほどの貢献をした人物や団体に贈られる、世界で最も権威があり、最も名誉ある賞の一つですよね。ノーベル賞受賞者と聞けば、私たちはその分野における最高の知性と業績を持つ、まさに「天才」や「偉人」といったイメージを抱きます。
しかし、そんな輝かしいノーベル賞を受賞した、非常に優れた頭脳を持つ人々の一部が、受賞後、特に人生の後半になって、自身の専門分野とは全く異なる領域で、多くの科学者からは到底受け入れられないような、奇妙で、時には非科学的とさえ言えるような考えや理論に強く惹かれ、それを熱心に広めようとすることがある……?
そんな、少し信じがたいような傾向を指して、近年、半ば冗談めかして、あるいは批判的な意味合いを込めて使われるようになった俗語が、「ノーベル症(Nobel disease / ノーベル病)」です。
今回は、この「ノーベル症」とは一体どのような現象なのか、なぜ起こると考えられているのか、そして具体的にどのような事例が挙げられるのか、この少し不思議で、しかし現代社会における「知」や「権威」について考えさせられるテーマを探ってみましょう。
「ノーベル症」とは? 天才たちの奇妙な確信
まず、はっきりとさせておきたいのは、「ノーベル症」というのは、インフルエンザや花粉症のような、医学的な病気の名前ではありません。また、心理学の教科書に載っているような、正式な学術用語でもありません。
これは、主にインターネット上の議論や、科学ジャーナリズムの記事、あるいは科学的な懐疑主義(物事を安易に信じず、証拠に基づいて批判的に検討する立場)を唱える人々などの間で使われるようになった、俗語であり、一種のレッテル貼りのような表現です。
では、具体的にどのような状況を指して「ノーベル症」と呼ぶのでしょうか? それは、一般的に以下のような傾向を指します。
ノーベル賞を受賞したような、極めて優れた業績を持つ科学者(あるいは他の分野の受賞者)の一部が、受賞後、特に晩年期を迎えるにつれて、自身の専門分野とは直接関係のない領域において、科学的な根拠が非常に乏しい、あるいは現在の科学界の主流からは明確に否定されているような、奇妙で型破りな(時には疑似科学的・陰謀論的・非科学的と見なされる)アイデアや理論を、なぜか強く信じ込み、それを公の場で熱心に主張したり、推進したりするようになる現象
まるで、ノーベル賞という究極の「お墨付き」を得たことで、「自分はあらゆる分野において特別な洞察力を持っているはずだ」「自分が信じることは、たとえ他の科学者が反対しても、きっと真実に違いない」というような、根拠のない万能感や、独りよがりな確信にとらわれてしまったかのように見える状態を、皮肉を込めて「病気」になぞらえているわけです。
なぜ「ノーベル症」に? 考えられる要因
では、なぜ、人類の知性の頂点を極めたとも言えるノーベル賞受賞者の一部が、このような状態に陥ってしまうことがあるのでしょうか? その原因は、おそらく単純なものではなく、個々のケースによっても異なりますが、いくつかの可能性のある要因が指摘されています。
過剰な自信と専門外への過信
ノーベル賞という、その分野における最高の栄誉と世界的な承認を得たという経験は、受賞者に計り知れないほどの自信を与えるでしょう。しかし、その自信が、時として過剰になり、「自分はこの分野で頂点を極めたのだから、他の分野のことについても、きっと人並み以上の理解力や洞察力を持っているはずだ」という万能感につながってしまうことがあります。その結果、十分な知識や訓練を積んでいない専門外の分野に対しても、自分の直感や考えが正しいと思い込み、大胆すぎる(そしてしばしば根拠のない)主張をしてしまうのかもしれません。
権威への挑戦・反骨精神の行き過ぎ?
多くの偉大な科学的発見は、それまでの常識や定説、権威に疑問を投げかけ、それに挑戦することによって成し遂げられてきました。ノーベル賞を受賞するような人々は、まさにそうした強い探求心と、既存の枠にとらわれない独創性、そして時には反骨精神を持っていることが多いでしょう。しかし、その成功体験が、受賞後も「自分なら、他の分野の『間違った常識』も覆せるはずだ!」「他の凡庸な科学者には見えていない真実を、自分だけが見抜いた!」という、一種の行き過ぎた自信や、孤高のヒーロー意識につながり、科学界のコンセンサス(専門家たちの間で広く合意されている見解)から大きく外れた、奇抜な説に惹きつけられてしまう原因になるのかもしれません。
加齢に伴う認知能力の変化
人は誰でも、年齢を重ねると、脳の働き方も少しずつ変化していきます。一般的に、思考の柔軟性がやや低下したり、新しい情報や自分と異なる意見を受け入れにくくなったり、あるいは一度「これだ!」と思い込んだ考えに固執しやすくなったりする傾向が見られることがあります(これは認知的な老化現象の一部であり、個人差は大きいです)。ノーベル賞受賞者の多くは、受賞時あるいはその後に高齢期を迎えます。そのため、こうした加齢に伴う認知的な変化が、特定の(しばしば非合理的な)考えに固執しやすくなる一因となっている可能性も、指摘されています。
「さらなる偉業」へのプレッシャーや渇望?
ノーベル賞を受賞するということは、その人物に対する社会からの期待を、良くも悪くも極限まで高めることになります。「あの偉大な〇〇先生なら、きっとまた何かすごいことを発見してくれるはずだ」という周囲からの期待や、あるいは受賞者自身の「ノーベル賞に見合うだけの、さらなる画期的な貢献をしなければならない」というプレッシャーや、功名心が、時に、地道で堅実な研究よりも、センセーショナルで、一見革命的に見えるような、しかし科学的な基盤の弱い「トンデモ説」へと目を向けさせてしまう、という心理が働く可能性も考えられます。
専門分野での「燃え尽き」や「行き詰まり」?
長年にわたる研究生活の末にノーベル賞という頂点を極めた後、自身の専門分野での研究テーマが見つからなくなったり、あるいは新たなブレークスルーを生み出すことへの困難を感じたり(いわゆる「燃え尽き症候群」に近い状態)することがあるかもしれません。そのような時に、新しい知的な刺激や、世間の注目を集めるような興奮を求めて、自分の専門とは異なる、特に科学と疑似科学の境界領域にあるような、ミステリアスで魅力的に見えるテーマ(例えば、超常現象、代替医療、意識の問題、宇宙人の存在、非主流の物理理論など)に、強い関心を抱き、のめり込んでいってしまう、というケースもあるようです。
「偉人」ゆえの孤立と、周囲の「忖度(そんたく)」
「ノーベル賞受賞者」という特別な肩書きは、時として、その人物を社会的に孤立させてしまうことがあります。周囲の人々(同僚の研究者、学生、メディア、一般の人々など)が、あまりにも偉大な業績を持つ受賞者に対して、過剰な敬意や遠慮を抱いてしまい、たとえ受賞者が明らかに専門外の分野で、科学的に見ておかしなことや間違ったことを言っていたとしても、「まさかあの先生が間違っているはずがない」「私が口を挟むのは失礼だ」「何か深い考えがあるのかもしれない」などと考えてしまい、間違いを正面から指摘したり、批判したりすることが非常に難しくなる、という状況が生まれがちです。その結果、受賞者は自分の考えが誤っていることに気づく機会を失い、ますますその考えに固執し、周囲からの建設的なフィードバックが得られないまま、孤立した「象牙の塔」に閉じこもってしまう…という悪循環に陥る可能性も指摘されています。
これらの要因が、単独で、あるいは複雑に絡み合うことによって、一部のノーベル賞受賞者が「ノーベル症」と呼ばれるような状態に陥ってしまうのではないか、と考えられています。
「ノーベル症」と呼ばれた(?)科学者たち:いくつかの事例
では、具体的にどのようなノーベル賞受賞者が、この「ノーベル症」の例として、しばしば名前を挙げられるのでしょうか? ここで紹介するのは、あくまで「そのような傾向が見られた」として、科学史や懐疑主義の文脈で議論されることがある、という事例です。彼らが残した本来の偉大な科学的業績や、その人格全体を否定するものでは決してありません。また、「ノーベル症」というレッテル自体が、必ずしも公平・正確ではない場合もあることに、十分な注意が必要です。
ライナス・ポーリング

ライナス・ポーリング (Linus Pauling, 1901-1994)
国籍:アメリカ
受賞歴:化学賞(1954)・平和賞(1962)
彼は、化学結合の理論(量子化学)への貢献で化学賞を、核兵器廃絶運動への貢献で平和賞を受賞した、20世紀を代表する偉大な科学者であり平和活動家です。ノーベル賞を2度受賞した人物は5名いますが、中でも異なる分野でノーベル賞を2度受賞したのは、このライナス・ポーリングが史上2人目となります(1人目はマリ・キュリーで、1903年に物理学賞、1911年に化学賞を受賞しています)。
しかし、その輝かしい業績とは裏腹に、彼の晩年は「ビタミンC」への異常なまでの傾倒で知られています。彼は、ビタミンCを毎日大量に摂取することが、風邪の予防や治療に絶大な効果があるだけでなく、がんの治療や寿命の延長にまで劇的な効果をもたらすと強く信じ込み、その主張を数多くの著書や講演で精力的に展開しました。彼の主張は一般社会に大きな影響を与え、「ビタミンCブーム」を引き起こした側面もあります。
しかし、彼の主張するビタミンCの驚くべき効果、特にがん治療への有効性については、その後の多くの信頼性の高い科学的研究(ランダム化比較試験など)によって、明確な根拠がないことが繰り返し証明されています。ポーリングほどの卓越した科学者が、なぜこれほどまでに科学的証拠の乏しい説に固執し続けたのか、その理由は今もなお議論されており、「ノーベル症」の最も有名な(そして悲劇的な?)事例としてしばしば挙げられます。
カリー・マリス

(出典:wikimedia commons)
カリー・マリス (Kary Mullis, 1944-2019)
国籍:アメリカ
受賞歴:化学賞(1993)
彼は、遺伝子(DNA)のごく一部を、試験管の中で短時間に大量に増やすことができる画期的な技術「PCR法(ポリメラーゼ連鎖反応)」を開発した功績により、ノーベル化学賞を受賞しました。PCR法は、現代の生命科学、医学(遺伝子診断、感染症診断など)、法医学(DNA鑑定)、考古学など、あらゆる分野で不可欠な基盤技術となっており、その貢献は計り知れません。
しかし、マリス氏は、その偉大な業績とは対照的に、ノーベル賞受賞後は、科学界の常識から大きく外れた、非常に型破りで物議を醸す発言を繰り返したことでも知られています。例えば、
- HIV(ヒト免疫不全ウイルス)がエイズ(後天性免疫不全症候群)の原因であるという、医学界の確立された定説に対して、公然と疑問を呈した(彼はHIV分離の証拠が不十分だと主張)
- 地球温暖化の原因とされるオゾン層の破壊は深刻な問題ではない、と主張
- 占星術の有効性を擁護するような発言
- 自身がLSDなどの幻覚剤を使用した体験(宇宙人?との遭遇体験など)を公言
彼のこれらのエキセントリックな言動は、多くの科学者から批判を浴び、しばしば「ノーベル賞受賞者」という肩書きが持つ権威を損なうものとして、「ノーベル症」の典型例のように語られることがあります。
リュック・モンタニエ

(出典:wikimedia commons)
リュック・モンタニエ (Luc Montagnier, 1932-2022)
国籍:フランス
受賞歴:生理学・医学賞(2008)
フランスの著名なウイルス学者であった彼は、同僚のフランソワーズ・バレシヌシと共に、エイズの原因ウイルスであるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)を発見したという、人類の健康に多大な貢献をした功績により、ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
しかし、彼もまた、特に晩年には、その輝かしい業績とは裏腹に、科学界の主流から大きく逸脱した、非科学的あるいは疑似科学的な主張を公然と展開するようになり、多くの科学者や公的機関から厳しい批判を受けることになりました。
- 科学的な根拠が完全に否定されている「水の記憶(water memory)」(水が、かつてその中に溶けていた物質の情報を「記憶」するという、ホメオパシーという代替医療の根拠とされる考え)を支持するような発言
- DNAが特定の周波数の電磁波を発している、といった独自の、そして検証されていない理論を提唱
- そして近年、世界中を混乱に陥れた新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関して、そのウイルスの起源について陰謀論的な主張をしたり、ワクチンの有効性や安全性に対して、科学的根拠に基づかない否定的な情報を発信
かつてHIV発見という偉大な業績を上げたノーベル賞受賞者が、なぜ晩年にこのような非科学的な主張に傾倒してしまったのか、その理由は定かではありませんが、彼のケースもまた、「ノーベル症」の現代における顕著な事例として、多くの人々に衝撃を与えました。
その他の例
この他にも、超伝導に関する「ジョセフソン効果」の発見でノーベル物理学賞を受賞したブライアン・ジョセフソンが、後にテレパシーなどの超常現象や超心理学、あるいは科学界で否定された「常温核融合」などを肯定的に捉え、擁護する発言をしたことや、トランジスタの発明で同じくノーベル物理学賞を受賞したウィリアム・ショックレーが、晩年に人種間の知能には遺伝的な差があるとする優生学的な主張(科学的にはほとんど根拠がないとされています)を行い、社会から強い批判を浴びたことなども、「ノーベル症」の文脈で言及されることがあります。
また、動物行動学の創始者の一人でノーベル生理学・医学賞を受賞したニコラース・ティンバーゲンが、その受賞講演の中で、当時すでに疑問視され始めていた自閉症の原因に関する古い説(母親の冷たい育て方が原因とする「冷蔵庫マザー」説)を肯定的に紹介したことも、後に批判の対象となりました(ただし、彼自身が晩年に奇説に固執したわけではないため、典型的な「ノーベル症」とは少し異なります)。
「ノーベル症」というレッテルへの注意点:安易な決めつけは禁物
このように、いくつかの有名な事例が存在する「ノーベル症」ですが、この言葉や概念を用いる際には、いくつかの重要な注意点を心に留めておく必要があります。
あくまで「俗語」であり「レッテル」
繰り返しになりますが、「ノーベル症」は正式な医学・心理学用語ではありません。特定の人物の、ある時期の、ある側面だけを取り上げて、「病気」であるかのように断定し、揶揄するレッテル貼りになってしまう危険性を常に孕(はら)んでいます。ノーベル賞受賞者も私たちと同じ一人の人間であり、様々な考えを持ち、時には間違いを犯すこともある、という視点を忘れてはいけません。
受賞者のごく一部に過ぎない
「ノーベル症」と呼ばれるような傾向を示すのは、これまでに数多く存在するノーベル賞受賞者の中の、ほんの一握りの人々に過ぎません。大多数の受賞者は、受賞後もそれぞれの専門分野で地道で重要な研究を続けたり、教育や後進の育成に力を注いだり、あるいは社会的な活動を通じて世界に貢献したりしています。「ノーベル賞を取ると、おかしくなってしまう」といったような、安易な一般化は全くの間違いであり、多くの誠実な受賞者に対して失礼にあたります。
専門外では誰でも間違う可能性
どんなに一つの分野で優れた業績を上げた専門家であっても、自分の専門分野から一歩外に出れば、知識が不十分であったり、誤った情報に基づいて判断してしまったりする可能性は、誰にでもあることです。ノーベル賞受賞者とて例外ではありません。彼らが、必ずしも得意ではない専門外の分野について、科学的なコンセンサスとは異なる、あるいは根拠の薄い主張をしたとしても、それを直ちに「ノーベル症」という言葉で片付けてしまうのは、少し短絡的すぎるかもしれません。
科学的な議論と個人の信念・自由
ある主張が科学的に正しいかどうかは、その主張の内容と、それを裏付ける証拠に基づいて、科学的な手続き(査読、追試など)を経て判断されるべきです。発言者がノーベル賞受賞者であるかどうか、という「権威」は、本来、その主張の科学的な妥当性とは関係ありません。また、科学的な真偽の議論と、個人がどのような信念を持つか、あるいはどのような意見を表明するか、という思想・良心の自由や表現の自由とは、分けて考える必要があります(ただし、公的な影響力を持つ人物の発言には、社会的な責任も伴います)。
権威への盲信に対する警鐘として
ただ、この「ノーベル症」という言葉が、なぜこれほどまでに(一部で)使われ、注目されるのかを考えると、そこには現代社会における「権威」との向き合い方に対する、一つの警鐘としての意味合いも含まれているのかもしれません。「たとえノーベル賞を受賞したような偉大な人物の言うことであっても、それを無条件に鵜呑みにしてはいけない」「肩書きや名声に惑わされず、常に自分の頭で考え、情報の真偽や根拠を批判的に吟味することが重要だ」という、科学リテラシーやメディアリテラシーの重要性を、逆説的に示しているとも言えるでしょう。
まとめ:偉業と人間らしさの狭間で
「ノーベル症」――それは、人類の知性の最高峰に到達したと称賛されるノーベル賞受賞者たちの一部が、時に見せるかもしれない、人間的な弱さや、思考の偏り、あるいは時代の変化とのズレ、といった側面を、少し皮肉な、そして時には批判的なニュアンスを込めて指し示す俗語です。
過剰な自信、反骨精神、加齢、プレッシャー、孤立…様々な要因が絡み合い、かつては誰よりも明晰で、誰よりも客観的であったはずの知性が、専門外の領域で、あるいは時代の変化の中で、時として奇妙で、非科学的に見えるような確信へと向かってしまうことがあるのかもしれません。
しかし、私たちは、「ノーベル症」という便利なレッテルを、思考停止や人格攻撃のために安易に使うのではなく、むしろそれを一つの学びの機会として捉えるべきでしょう。それは、
- どんなに偉大な人間であっても、完璧ではなく、間違いを犯す可能性があること。
- 専門分野の境界を越えることの難しさと、専門外への謙虚さの重要性。
- 権威というものに、私たちはどのように向き合うべきか。
- そして、科学的な思考方法や、批判的な精神を持ち続けることがいかに大切か。
といった、普遍的で重要な教訓を、私たちに改めて考えさせてくれるからです。
偉大な業績と、時に見せる人間的な弱さや誤り。その両方を、敬意と、そして冷静な視点を持って見つめることで、私たちは、科学や知性というもの、そして「人間」という存在そのものについて、より深く、より謙虚に、そしてより豊かに理解することができるのかもしれません。
※本記事では英語版、フランス語版も参考にしました



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