- 私たちが普段信頼している辞書や地図。実は、その中に製作者がわざと紛れ込ませた「嘘の情報」が隠されていることがあります。それが「虚構記事」や「トラップストリート」と呼ばれるものです。
- 虚構記事とは、辞書や百科事典などに載っている、実際には存在しない人物、地名、単語、あるいは誤った情報のこと。「マウントウィーゼル」という言葉も同義で使われます。
- トラップストリートとは、地図に描かれている、実際には存在しない架空の道や、わざと少しだけ間違えられた道の形や名前のこと。「ペーパータウン(架空の町)」などもこれに含まれます。
- その主な目的は、著作権侵害(無断コピーや盗用)を見つけるための「罠(トラップ)」です。もし他の誰かが作った辞書や地図に、自分たちが仕掛けたこの「嘘情報」がそっくりそのまま載っていたら、「あ、これはウチのを丸写ししたな!」と気づくための、強力な目印となるわけです。
- 辞書や地図作りの舞台裏にある、著作物を守るための、ちょっと面白い(そして時には真剣な)知恵と工夫の一つと言えます。
普段、私たちは辞書で言葉の意味を調べたり、地図で場所を確認したりする時、そこに書かれている情報は「正確で信頼できるもの」だと、当たり前のように考えていますよね。辞書や地図は、私たちの知識や行動の基礎となる、大切な情報源です。
ところが、実は、これらの非常に真面目で正確さが求められるはずの参照著作物(リファレンスワーク)の中に、編纂者や製作者が、確信犯的に「わざと」紛れ込ませた「嘘の情報」が、こっそりと隠されていることがあるのです!
それは一体なぜなのでしょうか? 今回は、辞書や百科事典に潜む「虚構記事(きょこうきじ)」と、地図上に描かれた「トラップストリート」という、ちょっと不思議で、知ると面白い、情報の「裏側」の世界にご案内します。
辞書に載ってる、実在しないモノ?:「虚構記事」の謎
まずは、「虚構記事(Fictitious entry)」から見ていきましょう。
これは、辞書、百科事典、人名録、企業名簿、各種データブックといった、様々な情報を集めて整理した「参照著作物」の中に、作成者が意図的に挿入した、実際には存在しない事柄や、あるいは事実に反する誤った情報に基づいた項目(エントリー)のことを指します。
具体的には、どのようなものがあるのでしょうか。歴史上、いくつかの有名な(あるいは、後から「虚構記事ではないか?」と疑われた)例があります。
- 架空の写真家「マウントウィーゼル」
1975年版の、信頼性の高い百科事典として知られていた『ニューコロンビア百科事典(New Columbia Encyclopedia)』には、「Lillian Virginia Mountweazel(リリアン・ヴァージニア・マウントウィーゼル)」という、もっともらしい経歴(オハイオ州生まれ、写真家、雑誌寄稿、事故死など)を持つ人物の項目が掲載されていました。しかし、この人物は完全に架空の存在でした。編集者が意図的に挿入した虚構記事だったのです。この出来事が有名になったことから、「マウントウィーゼル(Mountweazel)」という言葉自体が、百科事典などに仕込まれた虚構記事を指す俗語としても使われるようになりました。 - 謎の単語「Zzxjoanw」
1903年にアメリカの作曲家・作家ルパート・ヒューズが出版した音楽事典『Musical Guide』の、まさに一番最後の項目として、「Zzxjoanw」という、どう発音するのかも分からないような奇妙な単語が掲載されていました。そして、その意味は「マオリ語(ニュージーランド先住民の言語)で太鼓を意味する言葉」である、と説明されていました。しかし、これもまた、全くのデタラメであることが後に判明しています(マオリ語にはJ、X、Zで表される音素が存在しません)。おそらく、事典の最後に、奇抜で誰も調べようとしないような項目を載せておき、もし他の事典がこれをコピーしたらすぐにわかるようにした、編集者の「罠」だったのでしょう。
では、なぜ、正確さや信頼性が命であるはずの辞書や事典の作成者たちが、わざわざこのような「嘘の情報を」紛れ込ませるのでしょうか?
その最大の理由は、著作権侵害、つまり、自分たちが時間と労力をかけて作り上げた著作物が、他者に無断で丸ごとコピーされたり、盗用されたりするのを防ぎ、そしてもし盗用された場合に、それを見つけやすくするための「罠(トラップ)」として機能させるためです。
辞書や事典を作るという作業は、膨大な言葉や情報を収集し、調査し、整理し、定義を書き、校正するという、途方もない時間と労力、そして専門的な知識と費用を必要とします。しかし、そこに掲載されている個々の「情報」や「事実」(例えば、「リンゴ」という単語の意味や、「徳川家康」の生没年など)そのものには、通常、著作権は認められません。
そのため、悪意のある第三者が、苦労して作られた辞書や事典の内容を、そっくりそのままコピー(あるいは少しだけ体裁を変えて)して、あたかも自分たちが独自に編集したかのように装い、安価な模倣品として出版・販売してしまう、という著作権侵害が、残念ながら起こりうるのです。
こうした盗用(剽窃 / ひょうせつ)行為を防ぎ、またもし盗用が行われた場合にそれを証明するための、一種の「自衛策」として、編纂者たちは、自分たちの作品の中にだけ存在するはずの、ユニークな架空の項目(虚構記事)を、目立たないように、しかし発見可能なように、こっそりといくつか仕込んでおくことがあるのです。
もし、後から出版されたライバル社の辞書や事典に、自分たちが仕掛けたはずの、全く同じ「嘘」の項目が、そのまま(あるいはほとんど同じ形で)掲載されていたとしたら……? それは、「ああ、これは間違いなく、我々の著作物を無断でコピーしたな!」という、盗用の動かぬ証拠となりえます。裁判などで著作権侵害を主張する際に、非常に有力な武器となるわけです。(ただし、後述するように、これだけで法的に必ず勝てるとは限りません。)
もちろん、全ての虚構記事が著作権保護のためだけに入れられているわけではありません。時には、編纂者のささやかな遊び心やユーモア(いわゆる「イースターエッグ」のようなもの)として、こっそり架空の項目が紛れ込ませてある、というケースもあるかもしれません。あるいは、単純な編集上のミスや、古い情報の削除漏れが、結果的に虚構記事のように見えてしまう、という場合もあります。
地図に描かれた、存在しない道?:「トラップストリート」の秘密
辞書や事典に「虚構記事」という名の「罠」が仕掛けられていることがあるように、私たちが日常的に使う地図の世界にも、同じ目的で、巧妙な「嘘」が隠されていることがあります。それが「トラップストリート」と呼ばれるものです。
トラップストリートとは、文字通り「罠(トラップ)の道(ストリート)」。地図の製作者が、著作権侵害を発見しやすくするために、地図の中に意図的に描き込んだ、実際には存在しない架空の道路のことを指します。時には、実在する道路の形状(例えば、カーブの曲がり具合など)を微妙に変えて描いたり、道路の名前をわざと間違えて記載したりすることも、トラップストリートの一種に含まれます。これもまた、「著作権トラップ」の典型的な手法なのです。
目的はやはり著作権保護
地図の作成もまた、航空写真の解析、膨大な現地調査、測量データの収集・分析、そして情報を分かりやすく正確に表現するための編集・デザイン作業など、莫大な手間と時間、そして高い専門技術を必要とする、非常にコストのかかる仕事です。
しかし、完成した地図に描かれている道路や建物、地名といった「地理情報」そのものを、著作権法で完全に保護するのは、難しい側面があります(特に、事実の表現とみなされる場合)。そのため、地図製作者たちは、自分たちの多大な努力の結晶である地図が、ライバル会社などによって安易にコピーされ、無断で利用されるのを防ぐために、トラップストリートという、自分たちだけが知っている「目印」を、地図のどこかにこっそりと仕掛けておくことがあるのです。
どうやって罠を見破る?
もし、ライバル会社が出版した新しい地図や、あるいはインターネット上の地図サービスなどに、自分たちが仕掛けたはずの、存在しない道路や、意図的に入れた間違いが、そっくりそのまま載っていたら…? それは、相手が独自に測量や調査を行ったのではなく、自分たちの地図を無断でコピー(盗用)した可能性が極めて高いことを示す、有力な状況証拠となります。「この存在しない道が載っているということは、ウチの地図を見たな!」と気づくことができるわけです。
有名な事例
「トラップ・ストリート」の有名な事例として、アメリカ・ニューヨーク州のアグロー(Agloe)が挙げられます。
1930年代に、地図製作者のオットー・G・リンドバーグ(Otto G.Lindberg)とアーネスト・アルパーズ(Ernest Alpers)が、地図の著作権侵害を発見するための「罠(トラップ)」として、自分たちのイニシャル(O.G.L. と E.A.)を組み合わせて「Agloe」という架空の地名を地図上に記載しました。
ところが、後にその場所に「アグロー」の名を冠した雑貨店が実際に建てられ、人々がその地図上の名前を使うようになったため、架空の存在だったはずのアグローは郡の行政機関にも実在の地名として認識されるようになりました。
このように、著作権保護のための架空の地名が、予期せず現実の存在となった点で、アグローはトラップ・ストリートの中でも特に興味深い事例とされています。
デジタル地図にも罠が?
私たちが日常的に使っている Google Maps や、Appleのマップ、あるいはカーナビゲーションシステムの地図データなど、デジタル地図の世界でも、同様の「著作権トラップ」が仕掛けられている可能性が、専門家などによって指摘されています。例えば、
- 実際には直線のはずの道に、ごくわずかな、気づかない程度のカーブが付け加えられている。
- ほとんど知られていないような、架空の小さな町や村(ペーパータウン、もしくは幽霊集落などと呼ばれます)の名前が、地図上の何もない場所に記載されている。
- 特定の建物の形状や配置が、ほんの少しだけ意図的に間違えられている。
といったものです。これらは、デジタルデータが容易にコピーされてしまう現代において、不正な複製を発見するための「電子的な透かし(Digital watermark)」のような役割を果たしているのかもしれません。(ただし、Googleのような大手企業が、自社の地図に意図的に誤りを入れていることを公式に認めることは、まずありません。もし誤りが指摘された場合は、「データの更新ミス」などと説明されることが一般的です。)
過去には、イギリスの「Argleton(アーグルトン)」という、Google Maps上には確かに存在したけれど、実際にはただの野原だった、という架空の町(幽霊集落)が発見され、インターネット上で大きな話題になったこともありました。
「罠」の効果と限界:法的有効性は?
このように、辞書や事典における「虚構記事」、そして地図における「トラップストリート」や「ペーパータウン」は、著作物の作り手たちが、自分たちの時間、労力、そして知的な成果である著作物を、不正なコピーや盗用から守るために編み出した、一種の自衛策であり、巧妙で、時にはユーモラスな「罠(トラップ)」と言えます。
しかし、この「罠」が、法的な場で常に有効かというと、そうとも限りません。注意すべき点があります。
- 「嘘」自体に著作権はない
一般的に、虚構記事やトラップストリートのような、意図的に作られた「嘘の情報」や「間違い」そのものには、著作権は発生しないと考えられています。なぜなら、著作権は、思想や感情を創作的に表現したものに与えられるものであり、単なる(偽の)事実情報や、意図的な誤りには、通常、創作性が認められないからです。 - あくまで「状況証拠」
そのため、特に著作権の考え方が厳しいアメリカなどの国では、「相手の出版物に、自分が入れた虚構記事やトラップストリートが載っている」という事実だけをもって、直ちに著作権侵害が法廷で認められるとは限りません。それはあくまで、相手が盗用を行った可能性が高いことを示す「状況証拠」の一つとして扱われることが多いようです。著作権侵害を証明するためには、他にも、全体的な構成や表現の類似性など、様々な証拠が必要となる場合があります。
それでも、これらの「罠」は、
- 悪意のある盗用者をためらわせる抑止力として機能する。
- もし盗用が疑われる場合に、相手に対して「あなた方は我々の著作物をコピーしましたね?」と警告を発し、交渉を有利に進めるための材料となる。
といった点で、一定の効果を発揮してきたと考えられます。
まとめ:情報の裏側にある工夫とユーモア
私たちが普段、当たり前のようにその正確さを信頼して利用している辞書や地図。しかし、その膨大で整然とした情報の中には、もしかしたら、それを作り上げた編纂者や製作者たちが、著作権を守るために、あるいはちょっとした遊び心から、こっそりと仕掛けた「嘘の情報」=「虚構記事」や「トラップストリート」が隠されているかもしれません。
これらの「罠」の存在を知ると、情報の受け取り方が少し変わってくるかもしれませんね。それは、私たちが目にする情報が、常に100%客観的で正確なものとは限らない、という現実を示唆しているとも言えます。
しかし、同時に、それは辞書や地図といった、膨大な知識や情報を体系化するという、人間の知的な営みの「裏側」にある、作り手たちの苦労や工夫、そして時にはユーモアを垣間見せてくれる、興味深いエピソードでもあります。
次にあなたが辞書を引いたり、地図を広げたり、あるいはネットの地図サービスを使ったりする時には、「もしかしたら、この中に、まだ誰も気づいていない『虚構記事』や『トラップストリート』が隠されているかも?」なんて、ちょっとだけ探偵になった気分で、情報の隅々まで注意深く眺めてみるのも、面白いかもしれませんよ。
※本記事では英語版も参考にしました


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