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【4月20日】探検家か、帝国の先兵か? グスタフ・ナハティガルの命日

今日は何の日?
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この記事のざっくりまとめ
  • グスタフ・ナハティガル(1834年~1885年)は、19世紀に活躍したドイツの著名なアフリカ探検家であり、医師でもありました。
  • 彼は、1869年から1874年にかけて、当時のヨーロッパ人にとっては未知の世界だったサハラ砂漠の中央部から東部(現在のチャド、スーダン西部など)を6年間にわたり探検その地域の地理、民族、文化に関する極めて詳細で貴重な記録を残し、主著『サハラとスーダン』として発表しました。探検家としては非常に高く評価されています。
  • しかしその一方で、晩年の1884年には、ドイツ帝国政府の帝国委員に任命され、西アフリカに派遣されました。そして、現地の首長たちと条約を結び、トーゴやカメルーンをドイツの保護領とする宣言を行うなど、ドイツによるアフリカ植民地獲得の口火を切る、重要な役割を果たしました。
  • 1885年の今日、4月20日、ナハティガルはこの西アフリカでの任務を終え、ドイツへの帰国の途上にありましたが、持病の結核が悪化し、大西洋上の船内で51歳の生涯を閉じました

今から140年前の今日、1885年4月20日。大西洋上をドイツへ向かう船の中で、一人の偉大な、そして複雑な評価をされる人物が静かに息を引き取りました。彼の名は、グスタフ・ナハティガル(Gustav Nachtigal)。19世紀ドイツが生んだ最も重要なアフリカ探検家の一人として、未知の大地(当時のヨーロッパ人にとっての)であるサハラ砂漠の奥深くへと分け入り、その地理や民族について貴重な学術的記録をもたらした人物です。

しかし、彼は探検家としての輝かしい顔を持つ一方で、晩年にはドイツ帝国のアフリカ進出、すなわち植民地獲得の尖兵としての役割も担いました。探検家としての純粋な探求心と、帝国主義時代の国家の意志。その狭間で生きたナハティガルの人生とは、どのようなものだったのでしょうか? 彼の命日である今日、その波乱に満ちた足跡を辿ってみましょう。

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医師から探検家へ:アフリカへの道

グスタフ・ナハティガル

グスタフ・ナハティガルは、1834年2月23日、プロイセン王国(現在のドイツ東部、ブランデンブルク州)のアイヒシュテットという町で、ルター派教会の牧師の息子として生まれました。幼い頃に父を亡くしましたが、向学心に燃え、ハレ大学、ヴュルツブルク大学、グライフスヴァルト大学で医学を学び、医師となります。

卒業後はプロイセン軍の軍医として勤務しますが、残念ながら若くして肺結核を患ってしまいます。当時のヨーロッパでは結核は不治の病に近いものであり、彼はより温暖で乾燥した気候での療養を求めて、1862年に北アフリカへと渡りました。

彼はアルジェリア(当時はフランス領)やチュニジア(当時はオスマン帝国支配下のベイリク)に滞在し、医師として働く傍ら、現地の生活に深く溶け込んでいきます。アラビア語を熱心に学び、イスラム文化や北アフリカの社会についての知識と理解を深めていきました。この北アフリカでの経験が、彼の中に眠っていた探検への情熱を呼び覚まし、後の偉大な探検家としてのキャリアを切り開くための、重要な準備期間となったのです。

国王の使いとしてサハラ砂漠へ:世紀の大探検 (1869-1874)

ナハティガルの人生における最大の転機は、1868年に訪れました。当時チュニジアの首都チュニスで医師として働いていた彼のもとに、プロイセン国王ヴィルヘルム1世(後の初代ドイツ皇帝)からの特別な勅命が届いたのです。

その内容は、

かつてドイツ人探検家ゲルハルト・ロルフスが、サハラ砂漠南縁のボルヌ帝国を探検した際に、その地のスルタン(君主)から多大な援助を受けた。その返礼として、プロイセン国王からの感謝の意を示す豪華な贈り物(玉座や儀礼用の衣装など)を、ボルヌ帝国のスルタン、ウマルに直接届けてもらいたい

というものでした。

これは、単なる外交使節の任務ではありません。目的地のボルヌ帝国の首都クカ(Kukawa、現在のナイジェリア北東部チャド湖西岸付近)へ到達するには、広大で危険なサハラ砂漠を縦断しなければなりませんでした。当時のヨーロッパ人にとって、そのルートはほとんど未知であり、盗賊や過酷な自然環境など、命の危険が常に伴うものでした。

しかし、アフリカへの強い関心と探検への憧れを抱いていたナハティガルは、この困難な任務を名誉な機会と捉え、引き受けることを決意します。

1869年、ナハティガルは地中海岸のトリポリ(現在のリビアの首都)を出発し、サハラ砂漠の心臓部へと向かう、壮大な探検の旅を開始しました。 この旅は、約6年間に及び、当時のヨーロッパ地理学の空白地帯を埋める、数多くの重要な発見をもたらすことになります。

フェザーン地方、ティベスティ山地へ

まず、サハラ中央部の広大なオアシス地帯フェザーン地方を南下。そこからさらに南東へ進み、現在のチャド北部にそびえる、岩と砂漠の険しい山脈、ティベスティ山地へと足を踏み入れました。ここは当時、ヨーロッパ人にとっては全く未知の領域であり、彼はその地理や、そこに住む遊牧民トゥーブゥー人の生活・文化について、初めて詳細な記録を残しました。

ボルヌ帝国到達

数々の困難や危険(従者の反乱などもあったと言われます)を乗り越え、1870年、ナハティガルはついに目的地のボルヌ帝国の首都クカに到着。プロイセン国王からの贈り物をスルタン・ウマルに届け、最初の重要な任務を無事に果たしました。

チャド湖周辺からワダイ帝国へ

彼はそのまま帰路に就かず、ボルヌとその周辺地域(カネム地方、チャド湖東岸のバギルミ地方など)にしばらく滞在し、地理、民族、言語、歴史、政治体制などについて、詳細な調査研究を行いました。その後、さらに東へと探検の歩を進め、現在のチャド東部からスーダン西部に広がる強大なイスラム王国、ワダイ帝国の中心部(首都アベシェなど)へ、ヨーロッパ人として初めて到達するという快挙を成し遂げました。

ダルフール、コルドファンを経てナイルへ

さらに東進を続け、奴隷貿易の中継地としても知られていたダルフール地方(現在のスーダン西部、紛争で知られる地域)へ。その後、南東方向へ進路を変え、コルドファン地方(現在のスーダン中部)を経由し、ついにナイル川の流域へとたどり着きました。

帰還

1874年、ナイル川を下ってエジプトのカイロに到着。その後、スーダンの首都ハルツームなどを経て、同年秋、約6年間にわたる壮大な探検の旅を終え、ヨーロッパへと帰還しました。

探検の成果:『サハラとスーダン』

ナハティガルがこの6年間の探検で成し遂げたことは、単に地理的な空白を埋めただけではありませんでした。

彼は、訪れた地域の地理情報(地形、気候、水系など)を精密に記録し、ヨーロッパにおける中央アフリカ・サヘル地域の地図を大幅に書き換えました。

それ以上に重要だったのは、彼が出会った様々な民族(北のトゥーブゥー人、チャド湖周辺のカヌリ人、南のバギルミ人、東のワダイ帝国のマバ人など)の言語、社会構造、政治体制、歴史、宗教(イスラム教の受容の度合いなど)、日常生活、文化について、極めて詳細で、客観的かつ共感的な視点に基づいた記録を残したことです。彼は、現地の人々の言葉を学び、彼らの視点から物事を理解しようと努めました。また、当時この地域で広く行われていた奴隷貿易の悲惨な実態についても、冷静な筆致で報告しています。

これらの膨大な調査結果と探検の記録は、彼の主著である大著『サハラとスーダン(Sahara und Sudan)』としてまとめられました。全3巻からなるこの著作は、1879年から彼の死後の1889年にかけて刊行され、今日でも中央アフリカ・サヘル地域の歴史、民族、文化を研究する上で、最も重要で信頼性の高い基本文献の一つとして、古典的名著の地位を確立しています。

ナハティガルは、同じく19世紀の偉大なドイツ人アフリカ探検家であるハインリヒ・バルトと並び称され、その科学的で精密な調査能力と、異文化に対する敬意と共感に基づいた姿勢が高く評価されています。彼は、単なる冒険家ではなく、卓越したフィールドワーカーであり、アフリカ学者でもあったのです。

帝国の尖兵として:植民地獲得への関与

探検家、学者として輝かしい名声を得てドイツに帰国したナハティガルですが、彼の人生の最終章は、それまでの探検家としてのイメージとは異なる、もう一つの顔を持つことになります。

帰国後、彼はベルリン地理学協会の会長を務めるなど、学術界で重きをなしましたが、長年の探検生活が彼の健康を蝕んでいたため、必ずしも活動的ではありませんでした。1882年には、彼がかつて療養し、アラビア語などを学んだ地であるチュニスのドイツ総領事に任命され、再びアフリカの土を踏みます。

そして1884年、彼の運命を再び大きく動かす出来事が起こります。当時のドイツ帝国宰相、オットー・フォン・ビスマルクは、イギリスやフランスといった他のヨーロッパ列強によるアフリカ大陸の分割(いわゆる「アフリカ分割」)が急速に進む中で、ドイツもこの競争に本格的に参入し、アフリカにおける自国の権益(特に貿易拠点や資源)を確保・拡大する必要性を感じるようになっていました。(ビスマルク自身は、当初は海外植民地の獲得には慎重でしたが、国内の産業界やナショナリストからの強い圧力もあり、方針を転換しつつありました。)

ビスマルクは、アフリカに関する深い知識と経験、そして現地での交渉能力を持つ人物として、ナハティガルに白羽の矢を立てました。そして彼を、西アフリカ担当の帝国委員(Reichskommissar)という特命の役職に任命したのです。その極秘の任務は、ドイツの軍艦に乗って西アフリカ沿岸を巡り、現地の有力な首長たちと保護条約を結び、それらの地域をドイツ帝国の保護領(Schutzgebiet)、すなわち事実上の植民地とすることを宣言することでした。

ナハティガルは、軍艦メーヴェ号(SMS Möwe)に乗り込み、1884年の夏、西アフリカへと向かいました。そして、彼はビスマルクから与えられた指示に従い、迅速に行動しました。

  • トーゴランド(現在のトーゴ共和国沿岸部)
    1884年7月5日、彼は現地の主要な首長たちと保護条約に調印し、この地がドイツ皇帝の保護下に入ることを宣言。ドイツ国旗を掲揚しました。これがドイツ保護領トーゴランドの始まりです。
  • カメルーン
    同様に、同年7月14日には、カメルーンのドゥアラ地方(現在のカメルーン最大の都市ドゥアラ周辺)の有力な首長たち(ドゥアラ族の王たち)と同様の保護条約を結び、この地をドイツ保護領カメルーンとしました。カメルーンを巡っては、イギリスも進出を狙っており、ナハティガルの到着はまさに間一髪のタイミングでした。彼の迅速な行動が、この地域におけるドイツの領有権を決定づけたのです。

これらのナハティガルの活動は、ドイツ帝国がアフリカ大陸に公式な植民地領土を獲得する上での、まさに最初の一歩、口火を切るものとなりました。彼は、結果として、ドイツの帝国主義的膨張政策の尖兵として、歴史的な役割を果たすことになったのです。探検家としてアフリカの知られざる姿をヨーロッパに伝えた人物が、今度はそのアフリカをヨーロッパ列強が分割するプロセスに、直接関与することになったわけです。

大西洋上の最期(1885年4月20日)

西アフリカ沿岸での一連の任務を終えたナハティガルは、1885年の春、ドイツへの帰国の途につきました。しかし、熱帯の過酷な気候と、困難な交渉を含む今回の任務は、もともと病弱だった彼の体にさらなる負担をかけていました。長年の持病であった肺結核が急速に悪化し、彼は船上で衰弱していきました。

そして、1885年の今日、4月20日。ドイツへと向かう軍艦メーヴェ号が、西アフリカのギニア湾、パルマス岬(現在のリベリアの南東端)沖を航行中に、グスタフ・ナハティガルは、同行していた医師の看病もむなしく、船上で静かに息を引き取りました。享年わずか51歳。偉大な探検家は、再び故国ドイツの土を踏むことなく、大西洋の波間にその生涯を終えたのです。

彼の遺体は、一時的に近くのグランド・バッサム(現在のコートジボワール)の海岸に埋葬されましたが、その後、彼がドイツの旗を立てた地であるカメルーンのドゥアラに移され、そこに記念碑が建てられました。

ナハティガルの墓があるドゥアラ(カメルーン)の政府庁舎

まとめ:探検家と帝国主義の狭間で

グスタフ・ナハティガルの生涯は、19世紀後半という時代が持つ二つの側面、すなわち未知の世界への科学的な探求心と冒険、そしてヨーロッパ列強による帝国主義的な膨張と植民地支配、その両方を色濃く映し出しています。

彼の前半生は、純粋な知的好奇心と驚くべき忍耐力をもって、当時のヨーロッパ人にとって暗黒大陸であったサハラ砂漠の奥地を探検し、その地理、民族、文化に関する客観的で詳細な記録を残した、偉大な探検家であり、優れたアフリカ学者としての姿でした。彼がもたらした知識は、アフリカ理解に大きく貢献しました。

しかし、彼の晩年は、自らが愛し、探求したはずのアフリカの地を、自国ドイツ帝国の支配下に組み入れるための政治的な役割を担うことになりました。彼自身が、帝国委員としての任務をどのように捉え、どのような思いで遂行したのか、その内心を知ることは困難です。しかし、結果として彼の行動が、ドイツによるアフリカ植民地支配の始まりとなり、後のアフリカの人々にとっては苦難の歴史の一ページを開くことになったという側面は、否定できません。

探検家としての輝かしい功績と、帝国主義の担い手としての一面。グスタフ・ナハティガルという人物を評価する際には、この両方の側面を視野に入れる必要があります。彼の命日である今日、私たちは、彼が成し遂げた偉大な探検の業績を称えると共に、彼が生きた帝国主義の時代の複雑さと、それがもたらした光と影について、改めて深く考えてみる必要があるのかもしれません。

※本記事では英語版、ドイツ語版も参考にしました

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