スポンサーリンク

【4月11日】浴槽での謎の死:ビザンツ皇帝ロマノス3世、最期の日

今日は何の日?
スポンサーリンク
この記事のざっくりまとめ
  • ロマノス3世アルギュロスは、11世紀前半(在位: 1028年~1034年)の東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝です。マケドニア王朝に属します。
  • 彼はもともとコンスタンティノープルの高位の官僚貴族でしたが、世継ぎのいない先帝コンスタンティノス8世の命令で、60歳近い高齢で皇女ゾエと結婚させられ、帝位に就きました
  • しかし、皇帝としての器量には乏しかったと評価されており、人気取りの政策は財政を悪化させ、軍事遠征では惨敗を喫するなど、治世は失敗続きでした。
  • 妻である皇后ゾエとの関係も冷え切り、ゾエは若くハンサムな侍従ミカエル(後のミカエル4世)と不倫関係になります。
  • 1034年の今日、4月11日、ロマノス3世は宮殿の浴場で入浴中に急死しました。病死とも、皇后ゾエとその愛人ミカエルによって暗殺されたとも伝えられており、その死は謎に包まれています。彼の死後すぐに、ゾエはミカエルと再婚し、ミカエルが新皇帝となりました。

今から約1000年もの昔、1034年の今日、4月11日。栄華を誇った東ローマ(ビザンツ)帝国で、一人の皇帝がその生涯を終えました。彼の名は、ロマノス3世アルギュロス(Romanos III Argyros)。名門貴族の出身でありながら、思いがけず帝国の頂点に立ったものの、その治世は決して輝かしいものではなく、最後は宮殿の浴場で謎めいた死を遂げるという、波乱に満ちた人生でした。

今回は、皇帝ロマノス3世の物語と、彼の死を取り巻くビザンツ帝国の宮廷で繰り広げられた愛憎と陰謀のドラマに迫ってみましょう。

スポンサーリンク

予期せぬ帝位:老貴族と皇女の結婚

ロマノス・アルギュロスは、968年頃、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルで、有数の名門貴族であるアルギュロス家の血筋を引いて生まれました。彼は長年にわたり帝国の官僚として経験を積み、首都長官(エパルコス)などの重要な役職を務めましたが、まさか自分が皇帝の座に就くことになるとは、本人も周囲も考えていなかったでしょう。

運命が大きく動いたのは1028年のことでした。当時の皇帝コンスタンティノス8世(マケドニア王朝)は、男子の世継ぎを残さないまま重病となり、死期が迫っていました。王朝の断絶を恐れた皇帝は、自分の娘の一人に後継者候補と結婚させ、その婿に帝位を継がせることを決意します。

そこで後継者候補として選ばれたのが、ロマノス・アルギュロスでした。彼はすでに60歳近い年齢で、長年連れ添ったエレニという妻もいました。しかし、皇帝の命令は絶対です。ロマノスは、妻エレニと強制的に離縁させられ(彼女は修道院に送られました)、当時50歳を過ぎていた皇帝の次女、皇女ゾエ(Zoë)と結婚することを強要されたのです。

1028年11月12日、ロマノスとゾエは結婚式を挙げました。そして、そのわずか3日後の11月15日、コンスタンティノス8世が崩御。これにより、ロマノス・アルギュロスはロマノス3世として、思いがけずビザンツ帝国の帝位に就くことになったのです。

皇帝の器ではなかった? 失敗続きの治世

高齢で、かつ予期せぬ形で皇帝となったロマノス3世ですが、残念ながら、彼には帝国を統治する卓越した能力は備わっていなかったようです。同時代の歴史家ミカエル・プセルロスをはじめ、後世の歴史家たちの多くは、彼を「凡庸」「虚栄心は強いが実力不足」「皇帝の器ではなかった」と、かなり手厳しく評価しています。

彼の治世(1028年~1034年)は、いくつかの点で失敗が目立ちました。

人気取り政策の失敗

皇帝としての名声と人気を得ようと、彼は様々な政策を打ち出します。先帝コンスタンティノス8世が行った厳しい政策(特に貴族への課税強化)を緩和するため、貴族への減税や、国家に対する債務の帳消し、政治犯への恩赦などを実施しました。しかし、これらの措置は貴族層には歓迎されたかもしれませんが、結果的に国家財政を著しく悪化させました。

偉人の模倣と空回り

彼は、過去の偉大な皇帝たちに自らをなぞらえようとしました。古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスを気取って哲学に関心を示したり、法典編纂で名高いユスティニアヌス大帝のように法律を改正しようとしたり、あるいは軍事的成功を収めたゾエの伯父バシレイオス2世のように軍功を立てようとしたりしました。しかし、いずれも実力が伴わず、表面的な模倣に終わってしまいました。

財政の浪費

自身の敬虔さを示すため(あるいはこれも人気取りのため)、教会や修道院に対しては、見境なく莫大な寄進を行いました。また、首都コンスタンティノープルでは、聖母マリアに捧げる壮大な教会の建設(ペリブレプトス修道院付属教会)に着手するなど、大規模な建築事業も行いましたが、これらも国庫をさらに圧迫する要因となりました。

軍事的な大失態

皇帝自らが軍を率いて戦場に出る「親征」は、成功すれば皇帝の威信を高めますが、失敗すればその逆です。ロマノス3世は1030年、シリア方面のイスラム勢力(アレッポの首長国)に対して親征を行いました。しかし、アザーズの戦いでビザンツ軍は準備不足と指揮のまずさからまさかの惨敗を喫し、皇帝自身も命からがら逃げ帰るという、この上ない醜態を晒してしまったのです。東方国境の防衛線が崩壊しなかったのは、ひとえにゲオルギオス・マニアケスのような有能な将軍たちの奮闘のおかげでした。さらに、彼は海軍の予算を削減するなどしたため、地中海ではイスラム教徒の海賊の活動が活発化し、帝国の沿岸部が脅かされる事態も招きました。

世継ぎへの異常な執着

高齢で即位したロマノス3世にとって、自らの血を引く後継者(特に男子)を儲けることは、個人的にも政治的にも最大の関心事でした。彼は、同じく高齢(50代)の妻ゾエとの間に子供を作ろうと、様々な精力剤や怪しげな魔術的治療法にまで手を出したと言われていますが、その努力が実を結ぶことはありませんでした。

冷え切った夫婦仲と、若き愛人

世継ぎもできず、政治も軍事もうまくいかない中で、ロマノス3世と皇后ゾエの夫婦関係は急速に冷え切っていきました。ロマノスはゾエを次第に遠ざけ、彼女の浪費癖を非難して自由に使えるお金を制限するなど、冷淡な態度をとるようになります。一方、もともとロマノスとの結婚を望んでいなかったとされるゾエは、夫への不満と憎しみを募らせていきました。

そんな満たされない日々を送る皇后ゾエの前に、若く、大変な美貌を持つ一人の青年が現れます。彼の名はミカエル。彼はパフラゴニア地方(現在のトルコ北部)出身の、家柄はそれほど高くない人物でしたが、宮廷内で権力を持つ宦官(かんがん)であった兄ヨハネス・オルファノトロポスの影響力もあり、皇帝の寝室係(侍従)として仕えていました。ミカエルはその美貌と如才なさで、ロマノス3世皇帝自身の寵愛をも勝ち取り、急速に宮廷内での地位を高めていました。

そして、皇后ゾエは、この若きミカエルに心を奪われ、二人は皇帝の目を盗んで密かに愛人関係を結ぶようになったのです。この不倫関係は、やがて宮廷内では公然の秘密となり、皇帝の耳にも入っていたのではないか、とさえ言われています。

浴場での最期:病死か、暗殺か?(1034年4月11日)

1033年頃から、ロマノス3世の健康状態は目に見えて悪化し始めます。彼は原因不明の奇妙な病に苦しみ、顔色は土気色になり、髪は抜け落ち、体はむくみ、呼吸も困難になっていきました。明らかに衰弱していく皇帝の姿を見て、宮廷の人々は「毒が盛られているのではないか」と噂し合いました。もちろん、その毒を盛った張本人として疑われたのは、皇后ゾエとその愛人ミカエルでした。

そして運命の日、1034年の今日、4月11日がやってきました。この日はキリスト教の暦で聖木曜日(復活祭前の木曜日)にあたる、重要な日でした。その日、ロマノス3世は宮殿内にある浴場で入浴中に、突然亡くなったのです。

彼の死因については、公式には長患いしていた病気による病死と発表されました。しかし、同時代を生きた歴史家ミカエル・プセルロス(彼は後の皇帝たちの側近として宮廷の内情に詳しかった)をはじめ、多くの年代記作者は、これは暗殺であったと強く示唆しています。

プセルロスの記述などによれば、ロマノス3世が浴槽に浸かっていたところを、ミカエルの手下(あるいはミカエル自身が関与したとも)が襲い掛かり、抵抗する皇帝の頭を無理やり湯の中に押さえつけ、窒息死させた、というのです。毒による衰弱と、最後の直接的な暴力によって、皇帝は息の根を止められた、というわけです。

真相は歴史の闇の中ですが、皇帝の死が、皇后ゾエとその愛人ミカエルにとって極めて好都合なタイミングで訪れたことは、疑いようのない事実でした。

死後の展開:愛人が新皇帝に

ロマノス3世の死は、直ちに皇后ゾエに報告されました。彼女は悲しむどころか、すぐさま行動を開始します。まだ夫の遺体が冷めやらぬうちに、愛人であったミカエルを密かに宮殿に呼び寄せました。そして、その日の夜のうちに、ロマノス3世の死を悼む間もなく、ゾエはミカエルと結婚式を挙げ、彼を新しい皇帝(ミカエル4世)として即位させたのです。

皇帝としては凡庸で、大きな功績を残せず、最後は妻とその愛人に裏切られ(そしておそらく殺害され)て生涯を終えたロマノス3世。彼は、自らが莫大な費用を投じてコンスタンティノープルに建立したペリブレプトス修道院付属の教会に、ひっそりと埋葬されました。

まとめ:ビザンツ宮廷の愛憎と権力闘争

1034年の今日、4月11日にその生涯を閉じた東ローマ(ビザンツ)皇帝ロマノス3世アルギュロス。彼の人生は、中世ビザンツ帝国の宮廷が、いかに華やかでありながらも、同時に激しい権力闘争、愛憎、そして陰謀が渦巻く場所であったかを、私たちに生々しく伝えてくれます。

予期せず手にした帝位でしたが、皇帝としての器量には恵まれず、名声や世継ぎを求める思いも空回り。最後は妻とその若き愛人の手にかかって(その可能性が極めて高い)非業の最期を遂げた彼の物語は、権力のはかなさと、人間の欲望がもたらす悲劇を感じさせずにはいられません。彼の死は、ビザンツ帝国マケドニア王朝のさらなる衰退と混乱を招く一因ともなりました。

今日という日に、約1000年前にコンスタンティノープルの宮殿で繰り広げられたであろう、このドラマチックな歴史の一幕に、思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。

※本記事ではフランス語版も参考にしました

コメント

スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました