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【4月6日】英雄か、それとも…?北極点到達を宣言した探検家ロバート・ピアリー

今日は何の日?
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この記事のざっくりまとめ
  • ロバート・ピアリー(1856-1920)は、20世紀初頭に活躍したアメリカの海軍軍人であり、有名な極地探検家です。
  • 彼は、長年のパートナーであるマシュー・ヘンソンと4人のイヌイットの案内人と共に、1909年の今日、4月6日に、人類で初めて北極点(地理上の北緯90度地点)に到達したと主張しました。
  • この「北極点初到達」の栄誉を巡っては、別の探検家フレデリック・クックもほぼ同時期に到達を主張し、激しい論争となりましたが、最終的にピアリーの主張が公式に認められ、彼は国民的英雄として称賛されました
  • しかし、ピアリーの到達記録には、その後の研究で多くの疑問点(異常な移動速度、不確かな測量記録など)が指摘されています。現在では、彼が実際に北極点に到達したかどうかは非常に疑わしく、「到達していなかった可能性が高い」または「確実な証拠はない」というのが、多くの専門家の見解となっています。

4月6日。この日、アメリカ人探検家ロバート・ピアリーは、世界に向けて歴史的な宣言を行いました。「我、北極点に到達せり!」 もしこれが事実であれば、人類が初めて地球の最北端、北緯90度の地点に到達した瞬間であり、探検史における輝かしい金字塔となるはずでした。ピアリーは一躍、国民的英雄としてもてはやされます。

しかし、その栄光には当初からライバルとの論争が、そして後には科学的な疑念の目が向けられることになります。今回は、極地探検のパイオニアでありながら、その最大の功績とされる北極点到達の真偽について、今なお議論が絶えない人物、ロバート・ピアリーの探検人生に迫ります。

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極地への情熱:探検家ピアリーの誕生

ロバート・エドウィン・ピアリー(Robert Edwin Peary)は、1856年にアメリカ合衆国ペンシルベニア州で生まれました。彼はもともとアメリカ海軍に所属する土木技師であり、ニカラグアでの運河建設計画などに携わっていましたが、次第に未知の世界、特に極寒の地、北極圏への探検に強い情熱を燃やすようになります。

1886年、彼は初めてグリーンランドの内陸部を探検。これを皮切りに、彼は人生の多くを北極圏への挑戦に捧げることになります。グリーンランドの横断や北部の海岸線の調査などを繰り返し行い、極地での生存術、移動方法、そして氷と寒さとの戦い方について、経験と知識を積み重ねていきました。

ピアリーの探検が、他の多くの欧米の探検家と一線を画していた点の一つは、先住民であるイヌイット(当時エスキモーと呼ばれた)の伝統的な知恵や技術を積極的に学び、自身の探検に取り入れたことです。厳しい寒さから身を守るためのアザラシの皮などで作られた防寒着、広大な雪原や海氷上を効率的に移動するための犬ぞりの技術、そして雪と氷だけで作る一時的な住居「イグルー」の建設方法など、極北の地で生きるためのイヌイットのノウハウは、ピアリーの探検を成功させる上で不可欠な要素となりました。

そして、ピアリーの探検を語る上で絶対に忘れてはならないのが、アフリカ系アメリカ人の探検家、マシュー・ヘンソンの存在です。ヘンソンは、ピアリーの個人的な従者として雇われた後、その有能さと忠誠心から、20年以上にわたりピアリーの右腕としてほとんど全ての北極探検に同行しました。彼は犬ぞりの扱いに長け、イヌイット語を流暢に話し、探検隊の実務を取り仕切る上で欠かせない、まさに運命共同体のパートナーでした。

北極点を目指して:ピアリー式探検法

ピアリーの探検家としての最終目標、それは、当時まだ誰も到達したことのなかった地球の最北端、地理学上の北極点(North Pole, 北緯90度地点)の征服でした。これは、南極点到達と並び、20世紀初頭の探検家たちにとって最高の栄誉であり、国家的な威信をかけた競争の対象でもありました。

北極点への挑戦は困難を極め、ピアリーも何度か失敗を経験します。その経験から彼が編み出したのが、後に「ピアリー・システム」あるいは「ピアリー式探検法」と呼ばれる、計画的かつ効率的な探検手法でした。

これは、多数の支援チームと、物資を運ぶための多くの犬ぞり隊を編成し、彼らを本隊に先行させてルート上に次々と補給物資の基地(デポ)を設営していく、というものです。本隊はこれらのデポを利用しながら前進し、役割を終えた支援チームは次々と帰還していきます。そして最後に、十分な食料と燃料を確保し、疲労の少ない選りすぐりのメンバーだけで構成された最終アタック隊が、身軽になって一気に極点を目指す、というピラミッド型の兵站システムでした。

1908年夏、ピアリーはこのシステムを駆使して、最後の北極点挑戦に出発します。探検船「ルーズベルト号」(セオドア・ルーズベルト大統領にちなんで命名)で、カナダ最北部のエルズミア島にあるコロンビア岬を基地とし、翌年の春、氷結した北極海へと踏み出しました。

到達宣言とその瞬間(1909年4月6日)

ピアリーの計画は順調に進みました。支援隊が次々とデポを設置し、ルートを切り開き、そして帰還していきます。最後の支援隊のリーダーであったロバート・バートレット船長(彼自身も経験豊富な極地探検家でした)が帰還した後、北極点への最終アタック隊が編成されました。そのメンバーは、

  • ロバート・ピアリー自身
  • 彼の長年の右腕、マシュー・ヘンソン
  • そして、4人の優秀なイヌイットの案内人兼犬ぞり使い、ウータ(Ootah)、エギングワ(Egingwah)、シグルー(Seegloo)、ウーケア(Ooqueah)

の合計6名でした。

そして、1909年の今日、4月6日。ピアリーは、この6名のチームでついに北極点に到達した、と後の報告で宣言しました。彼はその地点で、持参した星条旗を掲げ、アメリカの勝利を宣言。緯度を確認するために六分儀で太陽高度を測定し、記録を取り、周囲の写真を撮影したとされています。もしこれが真実ならば、人類が初めて地球の自転軸の北端に立った、歴史的な瞬間となるはずでした。

クックとの大論争:どちらが先に到達したのか?

しかし、ピアリーがこの快挙のニュースを世界に打電しようとしていたまさにその時、予期せぬライバルが現れます。同じくアメリカ人の探検家であり、医師でもあったフレデリック・クックが、「自分はピアリーよりも約1年も早い1908年4月21日に、すでに北極点に到達していた」と発表したのです。

これにより、「真の北極点第一到達者はピアリーか、クックか?」を巡る、激しい論争が勃発しました。両者は互いを嘘つき、詐欺師と罵り合い、それぞれの支持者を巻き込んで、新聞紙上や学会、社交界を舞台にした大キャンペーン合戦が繰り広げられました。

ピアリー側には、彼を長年支援してきた裕福で影響力の強い「ピアリー北極クラブ」のメンバーたちがいました。彼らは、クックの主張には矛盾点が多く、提出された証拠(特に観測記録)の信憑性が低いことなどを徹底的に攻撃しました。一方、クックは以前の南極探検などでも成果の信憑性を疑われたことがあり、彼の主張は次第に分が悪くなっていきました。

最終的に、アメリカ国内の権威ある学術団体であるナショナルジオグラフィック協会や、アメリカ連邦議会は、ピアリーの主張を公式に認めました。ピアリーは海軍少将へと特進し、国民的英雄としての栄誉を不動のものとしました。一方、クックは詐欺師の烙印を押され、失意のうちに探検の世界から去ることになりました。

英雄への疑念:本当に到達したのか?

こうして、北極点初到達の栄誉はピアリーのものとして歴史に記録されました。しかし、その勝利には当初からいくつかの疑問の声が囁かれていました。そして、20世紀も後半に入り、ピアリー自身の探検日誌や記録、同行者の証言などがより詳細に、そして客観的に再検証されるようになると、その疑念はますます強まっていくことになります。

現在、ピアリーの北極点到達について指摘されている主な疑問点は以下の通りです。

異常な移動スピード

ピアリーが記録した、北極点へ向かう最後の5日間(バートレット隊と別れてから)の1日あたりの平均移動速度は、それまでの行程と比べて不自然なほど速いのです。特に、北極点から基地へ戻る際のスピードはさらに速く、当時の犬ぞりの能力や人間の体力を考えると、物理的に達成可能だったのか、大きな疑問符が付きます。

ナビゲーション(測位)の精度

当時の緯度測定は、主に六分儀を使って太陽の高度を測る方法で行われていました。しかし、常にゆっくりと移動している北極海の海氷の上で、目標地点であるピンポイントの地理学上の北極点(北緯90度00分00秒)を、この方法だけで正確に特定することは極めて困難でした。ピアリー自身が信頼できる測量技術を持っていたのか、また、極点とされる場所で正確な測定を行ったという客観的な証拠が乏しいことが指摘されています。特に、唯一測量の専門知識を持っていたバートレット船長を、極点到達まであと約240kmという地点で帰還させたことは、非常に不可解だとされています。

探検日誌の記録

ピアリーが残した探検日誌には、不可解な点が見られます。例えば、最も重要であるはずの北極点に到達したとされる日の記録が、日誌本体ではなく、別のルーズリーフの紙に書かれていたり、あるいは日誌に全く書き込みのない空白の日があったりします。これらは、後から記録が追加されたり、改ざんされたりした可能性を疑わせるものです。

同行者の証言

ピアリー以外で唯一読み書きができ、最後まで同行したマシュー・ヘンソンや、4人のイヌイットたちが、後年になって語った証言の中にも、ピアリーの主張と完全に一致しない部分や、曖昧な点が見られます。彼らが本当に「北極点」に到達したと認識していたかどうかは、必ずしも明確ではありません。

これらの疑問点から、現在では多くの極地史の研究者や専門家は、次のような見解を持つに至っています。

ロバート・ピアリーは、彼自身は北極点に到達したと誠実に信じていたかもしれない。しかし、客観的な証拠は極めて不十分であり、彼が実際に地理学上の北極点に到達した可能性は低い。少なくとも、到達したという確実な証拠は存在しない。

真の人類初の北極点到達は、その後の飛行機による探検(1926年のアムンセンらによる飛行船ノルゲ号、あるいはバードによる飛行機など、これらにも論争はありますが)や、原子力潜水艦による到達(1958年のノーチラス号)、あるいは1968年のプラステッド隊によるスノーモービルでの到達などが、より確実視されています。

まとめ:歴史の評価とピアリーの遺産

ロバート・ピアリーが、その生涯を北極探検に捧げ、卓越した計画性、不屈の精神力、そしてイヌイットの知恵を尊重し活用する先見性によって、極地探検の技術と知識を大きく前進させた偉大な探検家であったことは紛れもない事実です。

しかし、彼の最大の栄誉とされる「北極点初到達」の主張は、発表当初のライバルとの論争に始まり、後世の科学的な検証によって、その真実性に大きな疑問符が投げかけられ続けています。1909年の今日、4月6日は、英雄的な偉業が達成されたと宣言された日であると同時に、歴史の真実を巡る長く複雑な論争が始まった日でもあるのです。

ピアリーの物語は、探検という行為に伴う名誉欲や国家間の競争、記録の正確性の重要性、そして歴史的な「事実」がいかに多角的で、時に曖昧であるかを、私たちに強く示唆しています。国民的英雄として称賛された輝かしい側面と、到達の真偽を巡る論争に包まれた側面。その両方を知ることによって、ロバート・ピアリーという複雑な人物、そして極限に挑んだ探検の歴史を、より深く、そして公平に理解することができるのではないでしょうか。

※本記事では英語版も参考にしました

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