- フアン・デ・カルタヘナは、16世紀初頭のスペインの貴族であり、フェルディナンド・マゼラン率いる史上初の世界周航艦隊に参加した重要人物です。彼は艦隊のナンバー2(監察官)兼サン・アントニオ号の船長でした。
- しかし、彼はポルトガル人である司令官マゼランの指揮に強い不満を抱き、航海の初期から他のスペイン人士官たちと共に公然と対立しました。
- 1520年4月1日、艦隊が越冬のために停泊した南米パタゴニアのサン・フリアン港で、カルタヘナはマゼランに対する反乱の中心人物の一人となります。
- 反乱はマゼランによって鎮圧され、首謀者の多くは処刑されました。カルタヘナは貴族であったためか即時処刑は免れましたが、最終的に艦隊が出航する際に、別の反乱者と共にパタゴニアの辺境の地に置き去りにされるという過酷な運命を辿りました。その後の彼の消息は不明です。
4月1日。多くの国でエイプリルフールとして知られるこの日ですが、世界史を紐解くと、様々な出来事が起こっています。今から500年以上前の1520年のこの日、歴史的なマゼランの世界一周航海の途上で、艦隊の運命を揺るがす大きな反乱事件が発生しました。その中心人物こそ、艦隊のナンバー2でありながら、リーダーであるマゼランに反旗を翻したスペイン人貴族、フアン・デ・カルタヘナです。
彼の野心は何を目指し、なぜ反乱に至ったのか?そして彼を待ち受けていた過酷な運命とは? 大航海時代の光と影が交錯するドラマに迫ってみましょう。
エリート貴族、マゼラン艦隊へ
フアン・デ・カルタヘナ(Juan de Cartagena)は、15世紀末にスペインで生まれた貴族階級の人物で、海軍士官としてのキャリアを持っていました。彼の名が歴史に大きく刻まれることになるのは、ポルトガル出身の探検家フェルディナンド・マゼラン(スペイン語読みではフェルナンド・デ・マガリャンイス)が、スペイン王カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)の支援を受けて計画した、前人未到のプロジェクトへの参加でした。それは、西回りで航海し、当時ヨーロッパで非常に価値の高かった香辛料の産地、モルッカ諸島(香料諸島)への新航路を開拓するという壮大な計画、すなわち後の「世界一周」航海です。
この歴史的な航海において、カルタヘナはただの船乗りとしてではなく、極めて重要な役割を与えられました。彼は艦隊全体の会計監査官 (Veedor general) という要職に就くとともに、5隻からなる艦隊の中で最大級の船「サン・アントニオ号」の船長にも任命されたのです。これは、実質的に艦隊の司令官であるマゼランに次ぐ、ナンバー2の地位と言っても過言ではありませんでした。
なぜ、これほどの大役がカルタヘナに与えられたのでしょうか? その背景には、当時のスペインにおける強力な政治的コネクションがあったと考えられています。カルタヘナは、スペインの海外進出・植民地事業において絶大な権力と影響力を持っていた聖職者、ブルゴス大司教フアン・ロドリゲス・デ・フォンセカの甥、あるいは私生児であったと言われています。この強力な後ろ盾があったからこそ、彼はこの重要な地位に抜擢されたのです。
対立の火種:マゼランへの反感
1519年9月、5隻の船と約240人の乗組員を乗せたマゼラン艦隊は、スペイン南部のサンルーカル・デ・バラメダ港から、未知なる海へと旅立ちました。しかし、希望に満ちたはずの船出の直後から、艦隊内部には不協和音が生じ始めていました。
その最大の原因は、司令官マゼランがポルトガル人であることに対する、スペイン人たちの反感でした。艦隊の主要な船長や士官の多くは、カルタヘナをはじめとするスペイン貴族で構成されていました。彼らは、自分たちが「異国人」であり、ライバル国ポルトガルの出身であるマゼランの命令に従うことに、プライドが許さなかったのかもしれません。また、マゼランが航路の詳細を部下に明かさなかったことも、不信感を増幅させました。
カルタヘナは、こうしたスペイン人たちの不満の代弁者として、航海の初期からマゼランの指揮に対して公然と異議を唱えるようになります。艦隊の会議の場で、マゼランに対する敬礼を拒否するなど、その態度は挑戦的でした。これに対し、マゼランも黙ってはいませんでした。大西洋を横断中、規律を乱したとして、カルタヘナをサン・アントニオ号船長の職から解任し、一時的に別の船に拘束するという断固たる措置をとったのです。両者の対立は、もはや修復不可能なレベルに達していました。
運命の日:サン・フリアン港の反乱(1520年4月1日)
長く困難な航海の末、マゼラン艦隊は南米大陸の東海岸を南下し続けました。季節は冬へと向かい、一行は1520年3月末、越冬のためにパタゴニア地方(現在のアルゼンチン南部)のサン・フリアン港に停泊することを決定します。しかし、見知らぬ土地での厳しい寒さ、不足しがちな食料、そしていつ終わるとも知れない航海への不安は、乗組員たちの間で不満や絶望感を募らせていました。
そして、1520年4月1日、その日はイースター(復活祭)の日曜日にあたっていました。この日の夜、ついに溜まりに溜まった不満が爆発します。フアン・デ・カルタヘナは、コンセプシオン号船長のガスパル・デ・ケサーダ、ビクトリア号船長のルイス・デ・メンドーサといった、マゼランに反感を抱く他のスペイン人船長たちと共謀し、マゼランに対する反乱を起こしたのです。
反乱は周到に計画されていました。彼らは夜陰に紛れて行動を起こし、あっという間に「サン・アントニオ号」「コンセプシオン号」「ビクトリア号」の3隻の船を制圧しました。これにより、艦隊5隻のうち3隻が反乱軍の手に落ち、マゼランの指揮下に残ったのは、自身の旗艦「トリニダード号」と、最も小さく非力な「サンティアゴ号」のみ。マゼランは、まさに絶体絶命の窮地に立たされました。
カルタヘナら反乱軍は、マゼランに対し、艦隊の指揮権を分かち合うこと、そしてこれ以上の危険な航海を中止し、スペインへ引き返すことなどを要求しました。
反乱鎮圧、そしてカルタヘナの末路
しかし、不屈の探検家マゼランは、この危機的状況にあっても冷静さと決断力を失いませんでした。彼は、武力と策略を巧みに組み合わせ、反乱の鎮圧に乗り出します。
まず、交渉を持ちかけると見せかけて使いを送り、ビクトリア号に乗り込んで油断していた船長メンドーサを不意打ちで殺害。すぐさまビクトリア号を奪還することに成功します。 次に、マゼランは港の出口を自身の船で封鎖し、反乱側の船が逃亡できないようにしました。夜になり、脱出を試みようとしたのか、サン・アントニオ号がマゼランの旗艦に不用意に近づいてきたところを奇襲し、これも制圧。 主要な船と指導者を失ったコンセプシオン号のケサーダ、そしてそこに合流していたカルタヘナは、もはや抵抗するすべなく降伏しました。反乱は、わずか一日余りで鎮圧されたのです。
反乱の首謀者たちに対するマゼランの処断は、容赦のないものでした。反乱中に殺害されたメンドーサの遺体と、捕らえられたケサーダは、反逆者として処刑され、その遺体は見せしめのために四つ裂きにされて晒されました。
では、反乱の中心人物であったフアン・デ・カルタヘナの運命はどうなったのでしょうか? 彼には、即座の死刑ではなく、別の、しかし同様に過酷な罰が下されました。おそらく、彼の後ろ盾であるフォンセカ大司教への配慮があったためと考えられますが、マゼランは彼を生かしておきませんでした。
マゼランは、艦隊がサン・フリアン港を出航する際、フアン・デ・カルタヘナと、もう一人の反乱に加担した聖職者ペドロ・サンチェス・デ・ラ・レイナを、わずかな食料とワインだけと共に、荒涼とした無人の海岸に置き去りにするという、非情な追放刑(Marooning)を宣告したのです。
その後、カルタヘナがどうなったのか、彼の最期を伝える確かな記録はありません。通信手段も、助けを呼ぶ術もない、見知らぬ極寒の地で、彼はおそらく飢えや寒さによって、あるいは現地の先住民との遭遇によって、その生涯を終えたと考えられています。(後にこの地を訪れたイギリスの探検家フランシス・ドレークは、処刑に使われた絞首台の跡を発見したと記していますが、これはケサーダらのものであり、カルタヘナが絞首刑になったわけではありません。)
まとめ:大航海時代の野心と悲劇
フアン・デ・カルタヘナの生涯は、大航海時代という、輝かしい発見と進歩の裏で、人間の野心、対立、そして非情な現実が渦巻いていたことを物語っています。高い地位にありながら、異国人のリーダーへの反発と自らの野心から反乱を起こし、そして無人の荒野に置き去りにされるという悲劇的な結末を迎えたカルタヘナ。
1520年4月1日に起こったこの反乱は、マゼランの航海における最大の危機の一つでした。もしこの反乱が成功していたならば、人類初の世界一周という偉業は達成されなかったかもしれません。歴史の歯車が、ほんの少し違った方向に回っていた可能性を秘めた、重要な一日でした。フアン・デ・カルタヘナは、歴史の表舞台から消え去りましたが、彼の名は、大航海時代の複雑な人間ドラマと、リーダーシップの重さを今に伝えています。
※本記事ではスペイン語版も参考にしました


コメント