- 「バナナ型神話」とは、世界の色々な地域(特にインドネシアなどの東南アジアやアフリカの一部)に伝わる、「なぜ人間は死ぬようになったのか?」という疑問に答える、昔話・神話のタイプの一つです。
- その多くは、こんなお話です。昔々、神様が最初の人間(またはその祖先)に、「石」と「バナナ」のどちらかを選ばせました。
- 「石」は、硬くてずっと変わらないことから、永遠の命(不死)を象徴しています。一方、「バナナ」は、実(=子供)をたくさんつけるけれど、親木はやがて枯れてしまうことから、子孫は繁栄するけれど死んでしまう運命を象徴しています。
- 神話では、人間は(間違って、あるいは欲張って)「バナナ」の方を選んでしまった、と語られます。その結果、私たちは石のように永遠に生きることはできず、バナナのように子孫を残しながら死んでいく存在になったのだ、と説明されるのです。
- この神話は、死という現実を受け入れつつ、子孫を残して命をつないでいく、という人間の生き方を表しているとも考えられています。
「どうして人間は、いつか必ず死んでしまうんだろう?」 「永遠に生きられたらいいのに…」
そんなことを、子供の頃に考えたり、あるいは大人になってからもふと思ったりしたことはありませんか? 「死」というのは、私たち人間にとって、最も大きな謎であり、避けられない運命です。だからこそ、世界中の人々は、太古の昔から「なぜ死があるのか?」という問いに向き合い、その答えを様々な物語、すなわち「神話」の中に託してきました。
今回は、その「死の起源」を説明する神話の中でも、特にユニークで興味深い、「バナナ型神話」と呼ばれるお話のパターンについてご紹介します。なんと、私たちの「死すべき運命」は、遠い昔の「石」と「バナナ」の選択によって決まったのだとか…? いったいどういうことなのでしょうか。
「バナナ型神話」ってどんなお話?
「バナナ型神話」というのは、神話学(世界の神話や伝説を研究する学問)で使われている言葉で、ある特定の共通した筋書きを持つ「死の起源」に関する神話のグループを指します。特に、東南アジアの島々やアフリカの一部などで、似たようなお話がたくさん見つかっています。
その基本的なストーリーは、だいたいこんな感じです。
神様の提案
世界が始まったばかりの頃、あるいは最初の人間が作られた時、神様(または創造主、文化をもたらした英雄など)が、人間(またはその代表となる祖先)に対して、二つの選択肢を示します。
- 選択肢①「石」=永遠の命
一つは「石」や「岩」です。石は硬く、何千年、何万年と形を変えずに存在し続けます。これは、永遠に続く命、つまり「不死」の象徴です。 - 選択肢②「バナナ」=死と子孫
もう一つは「バナナ」です。(地域によっては、バナナではなく芋だったり、米だったり、あるいは脱皮して生まれ変わるヘビが対比されたりすることもあります。)バナナの木は、次々と新しい実(=子供、子孫)をつけますが、実をつけた親の木はやがて枯れて死んでしまいます。これは、個体としては死んでしまうけれど、代わりに子孫を残して種として続いていく「限りある命」の象徴です。
人間の選択
そして、物語の多くでは、人間(あるいは神様の使い、または最初の人間であるおばあさんなど)が、何らかの理由で、「バナナ」の方を選んでしまうのです。その理由は様々で、「神様の言葉を聞き間違えた」「石よりバナナの方が美味しそうだと思った」「早く返事をしないといけないと焦って、手近にあったバナナを取ってしまった」など、人間の側の不注意や誤解、あるいはちょっとした欲が原因とされることが多いようです。
運命の決定
バナナを選んでしまった結果、人間は「石」のような永遠の命を手に入れるチャンスを失ってしまいました。そして、それ以来、人間はバナナのように、いつかは死に、そして子孫を残していく、という運命をたどることになったのです…と、神話は語るのです。
どこに伝わっているの? 世界の「バナナ型神話」
この「石とバナナ」の選択というモチーフを持つ死の起源神話は、驚くほど広い地域で見られますが、特に東南アジアの島嶼部(島々)に数多く伝わっています。
インドネシア
インドネシアは、まさにバナナ型神話の宝庫です。スラウェシ島に住むトラジャ族の有名な神話では、天の神様が最初の男女に、天からロープで石とバナナを吊り下げてきました。「どちらかを選べ」と言われた男女は、最初はもちろん永遠の命である石を選ぼうとしました。しかし、彼らがためらっている間に、近くにいた猿がさっとバナナをもぎ取って食べてしまった(あるいは、別の話では人間自身が先にバナナを取ってしまった)ため、神様は怒って(あるいはがっかりして)石を天に引き上げてしまい、人間はバナナのように死ぬ運命を受け入れるしかなくなった、と伝えられています。同じインドネシアのハルマヘラ島のトベロ族の神話では、神様が人間に「石とバナナ、どっちがいい?」と尋ねたところ、一人のおばあさんが「石なんて食べられないけど、バナナなら美味しくて簡単に食べられるわ」と考えてバナナを選んでしまったために、人間は死ぬようになった、という、少しユーモラスで、でもちょっぴり切ないお話が残っています。
フィリピン
フィリピンのミンダナオ島に住むバゴボ族には、神様が石とバナナを川に投げ入れて、「見なさい、石は沈み、バナナは浮いた。だから人間はバナナのように(浮かんでは消える、はかない)命を持ち、死ぬのだ」と人々に告げた、というバナナ型神話の変形バージョンがあります。
アフリカ
また、地理的に遠く離れたアフリカ大陸にも、類似した神話が見られます。例えば、マダガスカル島の神話では、神様が最初の夫婦に「月の死(月は欠けてもまた満ちるように、死んでも再生できる不死の運命)」か、「バナナの死(子孫を残して自分は枯れる運命)」かを選ばせたところ、夫婦は子供を持つことを強く望んだため、「バナナの死」を選んだ、と語られています。これは、死を受け入れる代わりに子孫繁栄を選んだ、というより積極的な選択の物語になっていますね。(トーゴのエウェ族などにも、使いが不死の薬と死の薬を運び間違える、といった死の起源に関する類似のモチーフが見られます。)
このように、全く異なる文化圏で、驚くほど似通った発想の神話が語られていることは、人間が「死」という普遍的なテーマについて、どのように考え、物語を紡いできたのかを探る上で、非常に興味深い点です。
この神話が語るもの:死と生殖、そして人間の選択
では、この一見シンプルに見える「バナナ型神話」は、私たちにどのようなメッセージを伝えているのでしょうか? その解釈は一つではありませんが、いくつかの重要な意味合いが考えられます。
「なぜ死ぬのか?」への答え
まず最も直接的には、誰もが抱く根源的な問い「なぜ人間は死ななければならないのか?」に対する、素朴で分かりやすい起源の説明としての役割です。「それはね、遠い昔に私たちの祖先が、永遠の命である石ではなく、死ぬ運命にあるバナナを選んでしまったからなんだよ」と、物語は答えてくれるのです。
「死」と「子孫を残すこと」はセット?
神話の中で、「永遠の命(石)」と「死ぬ代わりに子孫を残すこと(バナナ)」が対比されている点も重要です。これは、個体として永遠に生き続けること(不死)と、種として子孫を残し繁栄していくこと(生殖)は、両立しないのかもしれない、という深い世界観を示唆している可能性があります。私たちは、石のように不変で孤独な永遠の命ではなく、バナナのように、自らは限りある命を生き、死んでいく運命を受け入れる代わりに、愛する子供たちを産み育て、次の世代へと命をつないでいく道を選んだのだ――そんな風に解釈することもできるでしょう。「死」があるからこそ、「新しい命」への希望や、子孫への愛情が生まれる、という生命のあり方を、神話は象徴的に語っているのかもしれません。
人間の「選択」とその結果
多くのバナナ型神話では、人間(またはその代理となる存在)が、不注意や誤解、あるいは目先の欲(バナナが美味しそう、など)によって、結果的に「死」という重い運命を引き寄せてしまう、という展開が描かれます。これは、人間の不完全さや、時に犯してしまう過ちが、現在の私たちの「死すべき運命」の原因なのだ、という一種の諦観や、あるいは「選択には責任が伴う」という教訓を含んでいるとも考えられます。
文化による多様な語り口
基本的な「石 vs バナナ」という構造は共通していても、どちらの選択肢が提示されるか(石とバナナ以外の場合も)、なぜそちらを選んでしまったのか、神様はどのような意図を持っていたのか、といった細部は、それぞれの地域の文化や自然環境、価値観を反映して、実に多様なバリエーションを持っています。これらの違いを比較してみることも、それぞれの文化が持つユニークな死生観や世界観を理解する上で、とても面白い視点を与えてくれます。
まとめ:神話が映し出す「生きること、死ぬこと」
世界各地、特に東南アジアやアフリカなどで語り継がれてきた「バナナ型神話」。それは、遠い昔の人々が、「死」という、人間にとって最も根源的で、そして避けられない現実にどのように向き合い、それを理解し、物語として語り継いできたかの、貴重な証しです。
神様が差し出した、永遠の命の「石」と、死と引き換えに子孫を残す「バナナ」。もし、あなたが最初の人間だったら、どちらの選択をしていたでしょうか? 永遠に、しかし孤独に存在し続ける石の道か。それとも、いつかは終わりが来るけれど、次の世代へと命の実を結んでいくバナナの道か…。
この素朴で、しかし奥深い問いかけを含んだ神話は、私たちが「生きること、死ぬこと、そして命をつないでいくこと」の意味について、現代に生きる私たちにも、改めて静かに問いかけているのかもしれません。



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