- 「明石原人(あかしげんじん)」とは、1931年(昭和6年)の今日、4月18日に、考古学者・古生物学者の直良信夫(なおら のぶお)が、兵庫県明石市の西八木海岸で発見したとされる化石人骨(腰の骨の一部、寛骨)に付けられた名前です。
- 発見後、研究者によって「これは日本にも原人(北京原人やジャワ原人と同じホモ・エレクトス)がいた証拠ではないか?」と発表され、日本の人類史を大きく遡らせる大発見として、社会にセンセーションを巻き起こしました。
- しかし、残念なことに、発見された化石の現物は、第二次世界大戦中の東京大空襲によって焼失してしまいました。
- そのため、残された石膏模型や写真などをもとに研究が続けられていますが、その骨の特徴は原人というよりも、私たちと同じ新人(ホモ・サピエンス)、特に縄文時代などに近いのではないか、という見方が有力です。しかし決定的な証拠がないため、「明石原人」の正体は今もなお論争が続く、「幻の人類化石」となっています。
今から100年近く前、1931年(昭和6年)の今日、4月18日。兵庫県明石市の風光明媚な海岸で、日本の人類の歴史、ひいては歴史観そのものを揺るがす可能性を秘めた、一つの化石が発見されました。それは、後に「明石原人(あかしげんじん)」と名付けられることになる、古代人の腰の骨(寛骨)の一部でした。
この発見は、「日本列島には旧石器時代は存在しない」と考えられていた当時の常識を覆し、「日本にもジャワ原人や北京原人のような古い人類(原人)が住んでいたのではないか?」という大きな期待と興奮を呼び起こしました。しかし、その後の運命は、多くの謎と論争、そして悲劇に見舞われることになります。
今回は、発見記念日である今日にちなみ、「幻の化石」とも呼ばれる明石原人の発見物語と、その正体を巡るミステリーについてご紹介します。
若き研究者の発見:西八木海岸にて(1931年4月18日)
「明石原人」の発見者は、直良信夫(なおら のぶお)という、当時まだ20代後半の若き研究者でした。彼は早稲田大学で考古学や古生物学を学び、特に日本列島における旧石器時代の存在を証明することに強い情熱を燃やしていました。当時の学界の主流であった「日本無旧石器時代説」に疑問を抱き、自らの足で各地を調査し、証拠を探し求めていたのです。
そして、1931年(昭和6年)の今日、4月18日、彼の長年の努力が実を結ぶ(かに見えた)瞬間が訪れます。兵庫県明石市の西八木(にしやぎ)海岸の屏風ヶ浦と呼ばれる場所で、地層の調査を行っていた直良は、海岸に露出していた崖の中から、化石化した人間の左側の寛骨(かんこつ、腰骨を構成する骨の一つ)の一部(腸骨と坐骨の一部とされる)を偶然発見したのです。

直良は、その地層が数十万年前から数万年前の更新世に属する可能性があると考え、この骨が非常に古い時代の人類の化石であると直感しました。彼はその後も精力的に調査を続け、同じ場所やその周辺から、ナウマンゾウやシカなどの絶滅した動物の化石や、旧石器時代のものと考えられる石器なども採集しました。
「日本にも原人がいた!」センセーションと命名
直良信夫は、この重要な発見を、当時日本の人類学界の第一人者であった東京帝国大学の長谷部言人(はせべ ことんど)教授に報告し、鑑定を依頼しました。しかし、長谷部教授は当初、この発見に対して慎重な姿勢を崩さず、その重要性をすぐには認めなかったと言われています。
事態が大きく動いたのは、第二次世界大戦が終わった後のことでした。1947年、長谷部教授は、直良から預かっていた(あるいは戦前に石膏模型が作られていた)明石の寛骨化石を改めて詳細に検討します。そして、その骨の形態、特に厚みや筋肉が付着していた痕跡などが、当時アジアで発見されていたジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトス)や北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)といった原人(現在でいうホモ・エレクトス)の特徴と非常によく似ている、という結論に達したのです。
1948年、長谷部教授は、日本の人類学と民族学の合同大会という大きな学術会議の場で、この発見を「明石日本原人(ニッポナントロプス・アカシエンシス / Nipponanthropus akashiensis)」として発表しました。学名まで与えられたこの発表は、学界のみならず、一般社会にも大きな衝撃と興奮をもって迎えられました。
なぜなら、当時の日本では、「日本列島に人類が住み始めたのは、比較的新しい縄文時代(約1万数千年前)以降である」という考えが定説とされていたからです。もし明石で発見された骨が本当に数十万年前の原人のものであれば、日本の歴史は一気に何十万年も遡ることになり、それはまさに日本の歴史教科書を根本から書き換えるほどの大発見となる可能性があったのです。「日本にも原人がいた!」というニュースは、敗戦からの復興を目指す当時の日本社会に、明るい希望と話題を提供しました。
悲劇:失われた現物化石
しかし、この「世紀の大発見」には、その後の研究と評価を著しく困難にする、決定的な悲劇が待ち受けていました。それは、発見された寛骨の化石そのもの(現物)が、失われてしまったことです。
最も有力な説によれば、直良信夫から研究のために預けられていた、あるいは直良自身が保管していたこの貴重な化石人骨は、1945年(昭和20年)の東京大空襲の際、保管場所であった東京大学の長谷部言人教授の研究室(一説には直良の自宅)が被災し、他の多くの重要な研究資料と共に戦火によって焼失してしまったとされています。
これにより、明石原人の正体を明らかにするための最も重要な証拠が、永遠に失われてしまったのです。残されたのは、現物から取られたとされる石膏模型(複数存在すると言われるが、どれが最も正確なものかについても議論がある)、数枚の写真、そして発見者である直良信夫が残した記録やスケッチだけとなってしまいました。
論争:原人か? 新人か? それとも…
現物化石という決定的な証拠が失われたため、「明石原人」が実際にどのような人類であり、どの時代のものだったのかについては、残された資料をもとに、多くの研究者が様々な角度から検討を重ねてきましたが、その評価は大きく分かれ、今日に至るまで長年にわたる論争が続いています。
原人説への疑問と新人説の台頭
長谷部教授が「原人的だ」と判断した骨の形態について、戦後、骨の形態学を専門とする研究者たち(特に、東京大学の遠藤萬里氏や鈴木尚氏ら)が、残された石膏模型を詳細に再検討しました。その結果、「長谷部教授が指摘した特徴は、原人に特有のものではなく、むしろ私たちと同じ新人(ホモ・サピエンス)、特に縄文時代人や、それよりやや古い後期旧石器時代の人類(例えば、港川人など)の骨の特徴とよく一致する」という見解が有力になりました。特に、骨盤の幅や腸骨(寛骨の一部)の形状などが、原人のものとは異なり、新人の(特に女性の)特徴に近いと指摘されたのです。
また、化石が発見されたとされる地層の年代についても、疑問が呈されました。本当に数十万年前の更新世の地層から確実に出土したのか、それとも崖の上にあった比較的新しい時代の遺跡(例えば縄文時代の貝塚など)から崩れ落ちた人骨が、古い地層に偶然混入してしまったのではないか、という可能性です。発見者である直良信夫の発見状況に関する記録が、必ずしも客観的・科学的に十分とは言えなかったことも、この地層年代に関する疑問を深める一因となりました。
これらのことから、一時期、「明石原人」は原人ではなく、比較的新しい時代(縄文時代など)の新人(ホモ・サピエンス)の骨であった、というのが学界の定説に近い見方となっていました。
原人説の再評価? 近年の動き
しかし、これで話が終わったわけではありません。近年になると、コンピューター断層撮影(CT)や三次元形状測定といった新しい技術を用いて、残された石膏模型をより精密に分析する研究も行われるようになりました。その結果、国立科学博物館の馬場悠男氏らの研究グループは、「石膏模型の詳細な形状を分析すると、やはり新人とは異なる、より原始的な特徴、すなわち原人(ホモ・エレクトス)に近い特徴が見られる」と主張し、原人説を再評価する動きも出てきました。
また、原人から新人へと進化する過渡期に位置するような、非常に古いタイプの人類(例えば、デニソワ人などとの関連も?)であった可能性などを探る研究も続けられています。
結論は未だ出ず…「幻の化石」
結局のところ、比較検討するための最も重要な証拠である現物化石が存在しない以上、「明石原人」の正体について、誰もが完全に納得できる最終的な結論を出すことは、現時点では極めて困難です。原人だったのか、古い時代の新人だったのか、あるいは比較的新しい縄文時代の人骨だったのか…。「明石原人」は、日本の人類学史における、永遠の謎を秘めた「幻の人類化石」として、今もなお研究者たちの議論の対象となっているのです。
まとめ:「幻の原人」が残したもの
1931年の今日、4月18日に、若き研究者、直良信夫によって発見された「明石原人」の寛骨。それは、日本の旧石器時代の存在を巡る議論に大きな火をつけ、日本人のルーツを探る研究に多くの人々の関心を集めるきっかけとなりました。
たとえその正体が、当初期待されたような「日本原人」ではなかった可能性が高いとしても、そして発見された化石そのものが失われてしまったという悲劇があったとしても、「明石原人」の発見と、その後の半世紀以上にわたる論争が、日本の旧石器時代研究や人類化石研究の進展に、計り知れないほど大きな刺激と影響を与えてきたことは紛れもない事実です。
発見の地である兵庫県明石市の西八木海岸には、今も「明石人類発見の地」と刻まれた石碑が建てられています。それは、一人の研究者の情熱と、失われた化石が私たちに投げかけた大きな謎、そして自らのルーツを探求し続ける人類の知的な営みを、静かに後世に伝えているのかもしれません。



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