- 「ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ」は、フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトの最初の妻であり、初代フランス皇后となった女性です。
- もともとはカリブ海のマルティニーク島出身。最初の夫はフランス革命(恐怖政治)の中でギロチンで処刑され、彼女自身も処刑寸前まで投獄されていました。
- 牢獄を生き延びた後、パリの社交界で華やかな未亡人として活躍していた時、6歳年下の無名の軍人・ナポレオンと出会い、彼から熱烈なアプローチを受けて再婚しました。
- 皇后として絶大な人気と洗練されたファッションセンスを誇りましたが、世継ぎ(子供)に恵まれなかったため、国家のために涙の離婚を余儀なくされました。
- ナポレオンの正妻としての血脈は途絶えましたが、前夫との間に生まれた子供たちの血筋は現在のスウェーデン、デンマーク、ベルギーなどのヨーロッパ諸国の王室へと受け継がれており、歴史的な勝者と言えます。
「フランスよ……軍隊よ……軍の先頭に……ジョゼフィーヌ……」
1821年、セントヘレナ島に流されたかつてのヨーロッパの覇者、ナポレオン・ボナパルトが息を引き取る直前に残したとされる最後の言葉です。数々の戦いに勝利し、世界を手中に収めかけた英雄の頭の中に最後まで残っていたのは、彼がかつて狂おしいほどに愛し、そして手放した一人の女性の名前でした。
彼女の名前はジョゼフィーヌ。絶望のどん底である死刑囚の牢獄から、ヨーロッパで最も華やかな皇后の座へと上り詰めた、フランス歴史上最もドラマチックな人生を歩んだ女性です。
今回は、単なる「英雄の妻」という枠には収まりきらない、ジョゼフィーヌの波乱万丈な生涯と、彼女の恐るべき処世術について解説していきます。
カリブ海の島娘から、断頭台の死刑囚へ
ジョゼフィーヌは、最初からフランスのきらびやかな貴族社会にいたわけではありません。1763年、彼女はカリブ海にあるフランスの植民地・マルティニーク島の裕福なサトウキビ農園で生まれました(本名は「マリー・ジョゼフ・ローズ」で、若い頃はローズと呼ばれていました)。
16歳の時、親の決めた政略結婚によってフランス本国へ渡り、アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚します。二人の子供(ウジェーヌとオルタンス)に恵まれますが、夫の浮気や冷遇により結婚生活は破綻し、別居状態となってしまいます。
そして、彼女の運命を大きく狂わせたのが「フランス革命」です。ロベスピエールによる恐怖政治の時代、元貴族であった夫のアレクサンドルは逮捕され、ギロチン(断頭台)で処刑されてしまいます。さらに、ジョゼフィーヌ自身も逮捕され、悪名高いカルム監獄に投獄されてしまいました。
明日は我が身かという死の恐怖に怯える日々。しかし、ここで奇跡が起きます。彼女の処刑が実行されるわずか数日前、「テルミドールのクーデター」が勃発してロベスピエールが失脚し、彼女はギリギリのところで死刑を免れ、釈放されたのです。
6歳年下の英雄、ナポレオンを虜にする
獄中から生還したジョゼフィーヌは、死と隣り合わせの経験から
自分の魅力と人脈を使って、この激動の時代を生き抜くしかない
と決意します。
彼女は持ち前の美貌と、島育ち特有の優雅さ、そして洗練された話術を武器に、瞬く間にパリの社交界(サロン)の中心人物(花形)へと上り詰めました。そんな未亡人ジョゼフィーヌが開催するサロンにやってきたのが、当時まだ田舎出の野心的な若き軍人だったナポレオン・ボナパルトです。
ナポレオンは、自分より6歳年上で、大人の色気と洗練されたマナーを持つジョゼフィーヌに一瞬で心を奪われました。彼からのアプローチは常軌を逸するほどの熱烈さでした。
ちなみに、「ジョゼフィーヌ」という名前は、彼女の本名であるマリー・ジョゼフ・ローズの「ジョゼフ」の部分をナポレオンが気に入って勝手に呼んだ愛称であり、やがて彼女自身もそう名乗るようになりました。
当初、ジョゼフィーヌは身なりもパッとしない年下のナポレオンを「風変わりな男」としか思っていませんでしたが、彼の将来性を見込み、1796年に結婚を受け入れます。結婚後すぐに出征したナポレオンは、戦地から毎日のように「君の愛がないなら私は死ぬ」「千回のキスを送る」といった情熱的(重め)なラブレターを彼女に送り続けました。しかし、社交界の華であったジョゼフィーヌは彼の留守中に他の若い男性と浮気を楽しんでおり、夫からの手紙を適当にあしらっていたというエピソードも残っています。
栄光のフランス皇后と、涙の離婚
やがてナポレオンが軍事的な大成功を収めて権力の階段を駆け上がると、二人の立場は逆転していきます。ナポレオンも浮気をするようになり、夫婦関係は冷え込むこともありましたが、不思議なことに、互いを必要とする強い絆は失われませんでした。
1804年、ナポレオンは皇帝に即位します。有名な画家ダヴィッドが描いた『ナポレオンの戴冠式』の絵画の中で、ナポレオンから冠を授けられてひざまずいているのがジョゼフィーヌです。こうして彼女は、死刑囚から一転、初代フランス皇后の座に就いたのです。

ジャック=ルイ・ダヴィッド皇后としての彼女は、莫大な浪費家でもありました。年間何百着という最新のドレスや宝石を買い漁り、ナポレオンを頭痛の種にさせました。しかし、彼女の洗練されたセンスと柔和な態度はフランス国民や他国の外交官から非常に愛され、「荒々しいナポレオンの性格を中和させる、完璧なファーストレディ」として政治的に大いに機能しました。
しかし、彼女には一つの決定的な弱点がありました。「ナポレオンの世継ぎ(子供)を産めなかったこと」です。 自分の帝国を血筋で残したいナポレオンにとって、世継ぎ問題は絶対でした。ついに1809年、ナポレオンは国家のために彼女に離婚を切り出します。ジョゼフィーヌはショックのあまり気絶したと言われていますが、最終的にはこれを受け入れました。離婚式でナポレオンは「彼女への愛情は少しも変わらない」と涙を流し、離婚後も彼女が「皇后」の称号を持ち続けること、手厚い年金と邸宅を与えることを約束しました。
バラを愛した晩年と「現代ヨーロッパ王室の祖」
離婚後、ジョゼフィーヌはパリ郊外のマルメゾン城で穏やかな晩年を過ごしました。彼女は植物学、特に「バラ」をこよなく愛していました。莫大な資金を投じて世界中から珍しいバラの品種を取り寄せ、マルメゾン城の庭園には約250種類ものバラが咲き誇りました。彼女の後援によって植物画家ルドゥーテが描いた『バラ図譜』は、現在でも植物画の最高傑作として知られています。現代の私たちが様々な美しいバラを楽しめるのは、彼女の情熱のおかげと言っても過言ではありません。
1814年、ナポレオンが失脚してエルバ島へ流刑になった直後、ジョゼフィーヌは風邪をこじらせて肺炎となり、50歳でこの世を去りました。
彼女の死後、歴史は非常に皮肉な結果を残します。ナポレオンがジョゼフィーヌと別れてまでオーストリア皇女(マリー・ルイーズ)との間に作った正妻の血統は、若くして途絶えてしまいました。
しかし、ジョゼフィーヌが最初の夫(ギロチンで処刑されたアレクサンドル)との間に産んだ子供たちの血脈は、現在に至るまでヨーロッパ中に広がり、生き残ったのです。息子のウジェーヌと娘のオルタンス(後のフランス皇帝ナポレオン3世の母)の家系を通じ、現在のスウェーデン、デンマーク、ノルウェー、ベルギー、ルクセンブルクなどの王室は、すべてジョゼフィーヌの直系の子孫にあたります。
まとめ:魅力という最強の武器
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの生涯は、まさにジェットコースターのような激動の連続でした。彼女は決して、高潔なだけの聖女ではありませんでした。浪費癖があり、浮気もし、権力にすり寄るしたたかさも持ち合わせていました。
しかし、彼女には「どんな絶望的な状況でも生き抜く生命力」と、「誰もが惹きつけられる圧倒的な愛嬌と気品」がありました。血みどろのフランス革命と戦争の時代において、剣も銃も持たない一人の女性が、ただ己の「魅力」と「人脈」だけを武器にヨーロッパの頂点に立ち、最終的にその血脈を現代の王室にまで残したという事実は、ある意味でナポレオンの軍事的勝利よりも遥かに奇跡的で、偉大なサバイバル劇と言えるのではないでしょうか。
【参考リンク】
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ – Wikipedia
※本記事では英語版も参考にしました



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