- ジョシュア・ノートン(ノートン1世)は、19世紀のアメリカで「アメリカ合衆国皇帝およびメキシコの保護者」を自称した実在の人物です。
- 元々はサンフランシスコで成功した実業家でしたが、米(コメ)の買い占め(投機)に大失敗して全財産を失い、精神のバランスを崩してしまいました。
- 1859年に突然「皇帝」を宣言しますが、サンフランシスコの市民たちは彼を迫害したり病院に入れたりせず、街のユーモアとして本物の皇帝のように丁重に扱いました。
- 彼は軍服を着て街をパトロールし、彼が独自に発行した「紙幣」は地元の商店やレストランで普通に使うことができました。
- 彼の死には約3万人の市民が弔問に訪れました。一人の男の狂気を温かく包み込んだ、サンフランシスコという街の寛容さを象徴する、嘘のような本当のエピソードです。
もし明日、あなたの住む街の広場で、見知らぬおじさんが「今日から私がこの国の皇帝である!」と宣言し始めたら、あなたはどうしますか?
おそらく見て見ぬふりをするか、警察や病院に通報するでしょう。それが現代の常識的な反応です。
しかし、19世紀のアメリカに、そんな自称「皇帝」の言葉を笑って受け入れ、彼が死ぬまで本物の王様のように扱い続けた信じられない街がありました。アメリカ西海岸の都市、サンフランシスコです。
男の名前は、ジョシュア・エイブラハム・ノートン。
狂気に陥った哀れな男と、その狂気を「究極の優しさ」で包み込んだ街の人々が織りなす、歴史上最も心温まるハートフル・コメディのような実話をご紹介しましょう。
実業家の転落:全財産と「正気」を失った男
ジョシュア・ノートンは元々、頭のおかしい人物ではありませんでした。
イギリスで生まれ、南アフリカで育った彼は、1849年のゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへやってきました。彼は金掘りにはならず、持参した資金を元手に不動産や輸入業のビジネスを始め、瞬く間に大成功を収めます。一時は数十万ドルの財産を築き、地元の名士として尊敬を集めていました。
しかし、一攫千金を狙った「米(コメ)の買い占め」が彼の運命を狂わせます。
当時、中国で大飢饉が起きて米の価格が高騰していました。ノートンはペルーから到着した米を全額つぎ込んで買い占め、市場を独占しようと企てました。ところが、直後に別の国からも大量の米を積んだ船が次々と入港し、米の価格は大暴落。ノートンは破産し、全財産を失ってしまいました。
数年間にわたる泥沼の裁判の末、財産だけでなく社会的地位もすべて失ったノートンは、サンフランシスコの街から姿を消しました。そして数年後、再び人々の前に姿を現したとき、彼の精神は完全に現実から乖離してしまっていたのです。
「アメリカ合衆国皇帝」の誕生と、街の粋な対応

1859年9月17日。地元の新聞『サンフランシスコ・ブレティン』紙の編集部に、みすぼらしい身なりのノートンがやってきて、一通の宣言書を掲載するように要求しました。
多数の市民の要望により、私、ジョシュア・ノートンは『アメリカ合衆国皇帝』に即位することを宣言する
狂人のたわごとです。しかし、編集長はこれをボツにするどころか、「これは面白い!」と新聞の一面にデカデカと掲載してしまったのです。
さらに驚くべきは、この記事を読んだサンフランシスコ市民の反応でした。彼らは「頭のおかしい元実業家」を冷笑するのではなく、
我々の街に皇帝陛下が誕生したぞ! バンザイ!
と、街全体でこの壮大なジョークに乗っかることを決めたのです。ここから、ノートン1世の華麗なる「皇帝生活」が始まります。
誰もが愛したノートン1世の「優雅な日常」
皇帝となったノートン1世の日常は、実に堂々としたものでした。
立派な軍服でパトロール
彼は青い軍服に金色の肩章をつけ、羽飾りのついた帽子を被り、サーベルや杖を持って毎日サンフランシスコの街を「視察」しました。この軍服は、彼がボロボロの服を着ているのを見かねた地元の陸軍基地の将校たちが、敬意を持って(面白がって)プレゼントしたものです。
手作りの「帝国紙幣」が使える

皇帝はお金を持っていませんでしたが、自分のサインを入れた「帝国紙幣(約束手形)」を発行しました。驚くべきことに、サンフランシスコの多くの商店や酒場はこれを本物のお金として受け取りました。(後で銀行に持っていけば、名士たちがこっそり現金化してくれていたとも言われています)。
最高級レストランでタダ食い
彼がレストランに入ると、店主は最高の席に案内して無料で食事を振る舞いました。そして店の入り口には「アメリカ合衆国皇帝陛下 御用達」という真鍮のプレートを誇らしげに掲げました。皇帝が来ることは、店にとって最高のステータスだったのです。
観劇は常に「貴賓席」で
劇場に行けば、一番良いバルコニー席が彼のために用意されており、彼が席につくまで観客は全員起立して敬意を表しました。
ある時、新米の警察官が彼を「精神異常者」として逮捕してしまう事件が起きました。すると、新聞各紙は「なんという不敬だ!」と警察を猛烈に批判し、市民からも抗議が殺到。慌てた警察署長は彼を釈放し、直々に謝罪しました。それ以降、サンフランシスコの警察官は、街でノートン1世とすれ違うたびに立ち止まって「敬礼」するようになったのです。
ただの狂人ではない? 恐るべき「先見の明」
ノートン1世は、ただ街をフラフラしていたわけではありません。彼は皇帝として、当時の政治の腐敗を正すために様々な「勅令(命令)」を新聞を通じて発表し続けました。
「腐敗した連邦議会を解散せよ」「民主党と共和党は争いをやめよ」といった命令は当然無視されましたが、彼の勅令の中には、のちの歴史を正確に予言していたとしか思えない天才的なものがありました。
- 国際連盟の設立の提唱
彼は国同士の紛争を平和的に解決するため、「諸宗教・諸国家の連盟」を作るべきだと命じました。これは後に国連へと繋がるアイデアです。 - サンフランシスコとオークランドを結ぶ橋の建設
彼は海を隔てた2つの都市の間に、巨大な吊り橋か海底トンネルを作れと命じました。当時は「狂人の妄想」と笑われましたが、それから約70年後、彼の命令と全く同じ場所に「サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ」と「トランスベイ・チューブ(海底鉄道トンネル)」が本当に建設されたのです。
彼の心の中には、人々の平和と街の発展を純粋に願う、本物の「皇帝の魂」が宿っていたのかもしれません。
3万人が見送った、皇帝の最期
1880年1月8日、ノートン1世は科学アカデミーの討論会に向かう途中の路上で倒れ、そのまま息を引き取りました。
翌日の新聞は、「皇帝崩御(Le Roi est Mort)」という見出しを掲げ、一面を黒枠で囲んで彼の死を大々的に報じました。 彼には身寄りも財産もなく、ポケットには数ドルの小銭しか入っていませんでした。しかし、彼を愛したサンフランシスコの有力者たちが資金を出し合い、高級なローズウッドの棺を手配しました。
彼の葬儀には、当時のサンフランシスコの人口の約8分の1にあたる、約3万人もの市民が参列しました。資本家も労働者も、警察官も子供たちも、誰もが彼との別れを惜しみました。
のちに『トム・ソーヤーの冒険』を書いた文豪マーク・トウェインや、『宝島』のロバート・ルイス・スティーヴンソンも、サンフランシスコ滞在時に彼を見かけ、その不思議な魅力を作品の中に書き残しています。
まとめ:狂気を現実にした街の魔法
ジョシュア・ノートンは、確かに精神を病んだ破産者だったかもしれません。しかし、彼を「本物の皇帝」にしたのは、間違いなくサンフランシスコという街の持つ「ユーモアと寛容さ」でした。
「誰かを笑い者にして排除するのではなく、みんなでその物語に乗っかって楽しんでしまおう。そして、一人の孤独な男の尊厳を守ろう」。 そんな粋な優しさが集まった結果、ノートン1世は世界で最も貧しく、しかし世界中のどの王よりも市民から愛された「幸せな皇帝」として人生を全うすることができました。
多様性や寛容さが問われる現代において、ノートン1世の物語は私たちにとても大切なことを教えてくれます。もし街で彼のような奇妙な人を見かけたら、少しだけ心の中で敬礼してみてはいかがでしょうか。
【参考リンク】
ジョシュア・ノートン – Wikipedia
※本記事では英語版も参考にしました



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