- 「言語的相対論」とは、人間が日常的に使っている「言語」の構造や語彙が、その人の思考や世界観に影響を与える、あるいは決定づけるという言語学・心理学の概念です。
- アメリカの学者エドワード・サピアと、その弟子ベンジャミン・リー・ウォーフの研究から広く知られるようになったため、一般的には「サピア=ウォーフの仮説」という名前で親しまれています。
- この仮説には、言語が思考を完全に支配するという「強い仮説(言語決定論)」と、言語は思考の傾向に影響を与えるに留まるという「弱い仮説」の2つの立場があります。
- 「強い仮説」は、現在ではチョムスキーなどの普遍文法論によって否定されていますが、「言語が空間認識や色の見え方に影響を与える」という「弱い仮説」は、近年の認知科学(ネオ・ウォーフ主義)の実験によって次々と実証され、再び脚光を浴びています。
- ロシア語話者の「青」の見え方や、オーストラリア先住民の「絶対的な方角」の認識など、世界中の多様な言語を比較することで、人間がいかに「言葉という色眼鏡」を通して世界を見ているかが明らかになっています。
「英語を話している時と、日本語を話している時で、なんだか自分の性格が変わる気がする」
外国語を学んだことがある人なら、一度はこんな不思議な感覚を味わったことがあるのではないでしょうか。
私たちが何かを考えるとき、頭の中では常に「言葉」が使われています。では、もし私たちが全く違う構造を持った言語を話していたら、物事の感じ方や、世界の見え方そのものまで変わってしまうのでしょうか?
「雪」を表す言葉がたくさんある民族は、私たちよりも雪のわずかな違いを見分けることができるのか。特定の感情を表す単語がない言語を話す人は、その感情を抱くことができないのか。
今回は、SF映画(『メッセージ』など)や文学のテーマとしても愛され続ける、言語学における最もロマンチックでスリリングなテーマ「言語的相対論(サピア=ウォーフの仮説)」について詳しく解説していきます。
「サピア=ウォーフの仮説」の誕生:空のガソリン樽はなぜ燃えたか
この仮説が広く知られるようになったのは、1930年代のアメリカです。人類学者のエドワード・サピアと、その教え子であるベンジャミン・リー・ウォーフが提唱しました。
特にウォーフの経歴はユニークで、彼はもともと火災保険会社の凄腕の検査官でした。彼は仕事で様々な火災現場を調査するうち、人間の「言葉の捉え方」が事故を引き起こしていることに気がつきます。
例えば、ガソリンが満タンに入った樽の周りでは、誰もが危険だと分かっているためタバコを吸いません。しかし、中身を使い切った「空の(empty)」ガソリン樽の周りでは、作業員が平気でタバコを吸い、引火して大爆発を起こす事故が後を絶ちませんでした。
実際には、気化したガソリンが充満している「空の樽」の方が圧倒的に危険です。しかし、作業員の脳は「空(empty)=何もない、安全」という言葉のイメージに引きずられ、目の前の物理的な危険性を正しく認識できなくなっていたのです。
また、ウォーフはアメリカ先住民のホピ族の言語を研究し、
彼らの言語には、英語のような『過去・現在・未来』という直線的な時間の概念がない。だから彼らの宇宙観は私たち西洋人とは全く違うのだ
と主張しました。 こうして、「言葉が人間の思考の枠組みを決める」というサピア=ウォーフの仮説が誕生しました。
「強い仮説」と「弱い仮説」:言葉は牢獄か、色眼鏡か
言語的相対論には、その影響度の強さによって2つの解釈があります。
強い仮説(言語決定論)
「言語が人間の思考を完全に決定する」という過激な立場です。つまり、「言葉が存在しない概念は、考えることすらできない」という考え方です。
ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』に登場する「ニュースピーク(新語法)」は、まさにこれを利用した洗脳の道具です。政府が「自由」や「反逆」という言葉を辞書から消し去ることで、国民が政府に逆らうことすら物理的に思いつけなくするという恐ろしい世界が描かれています。
弱い仮説
「言語は人間の思考に影響を与え、特定の方向に誘導する」という穏健な立場です。思考を完全に縛る「牢獄」ではなく、世界を特定のトーンで見せる「色眼鏡」のようなものだとする考え方です。
現代の科学において広く支持されているのは、こちらの「弱い仮説」の方です。
実証された面白い実例:言葉が違えば、見える現実も違う
1960年代以降、ノーム・チョムスキーらが提唱した「どんな言語も根本的な文法は同じ(普遍文法)」という理論が主流になり、サピア=ウォーフの仮説は一度「オカルトチックなトンデモ学説」として完全に否定されました。
しかし1990年代以降、認知心理学の発達により状況は一変します。レラ・ボロディツキーなどの研究者(ネオ・ウォーフ主義者と呼ばれます)によって、「言語が実際に認知機能に影響を与えている」という科学的な実験データが次々と発表されたのです。
色の世界:ロシア語話者は「青」の違いに敏感
日本語や英語では、明るい青も暗い青もひっくるめて「青(Blue)」と呼びます。しかしロシア語では、水色のような明るい青を「ゴルボーイ」、紺色のような暗い青を「シニー」と呼び、この2つは全く別の色として扱われます。
実験によれば、ロシア語話者は、英語話者に比べて「明るい青と暗い青の境界線の色」を見分けるスピードが有意に速いことが判明しました。言語が視覚の処理スピードまで変えていたのです。
空間の認識:「右・左」が存在しない人々
オーストラリアの先住民が話すグーグ・イミディル語には、「右・左・前・後ろ」という相対的な方向を示す言葉がありません。彼らはすべて「東西南北」の絶対的な方角で表現します(例:「君の南西の足にアリが止まってるよ」「ちょっと東にずれて」)。
そのため、彼らは森の奥深くや窓のない建物の中にいても、常に正確に東西南北を把握できるという、人間離れした空間認識能力を身につけています。彼らの脳は、言葉の構造に合わせて常にコンパスのように働き続けているのです。
物の性別:橋は「美しい」か「力強い」か
ドイツ語やスペイン語などのヨーロッパ言語には、名詞に「男性名詞・女性名詞」が割り当てられています。「橋(Bridge)」という単語は、ドイツ語では女性名詞、スペイン語では男性名詞です。
「橋を形容詞で表現してください」とお願いすると、ドイツ語話者は「美しい、優雅な」といった女性的な言葉を多く選び、スペイン語話者は「力強い、頑丈な」といった男性的な言葉を選ぶ傾向が強いことがわかっています。無生物であっても、文法上の性がその物の印象を操作しているのです。
まとめ
「強い仮説」が言うように、言葉が私たちの思考のすべてを支配しているわけではありません。言葉がなくても感情は湧き上がりますし、新しい概念を思いつくこともできます。
しかし、現在広く支持されている「弱い仮説」が示す通り、私たちが日常的に使っている言語は、私たちの脳に「世界のうち、どこに注意を向けるべきか」というフィルターを強制的にかけています。
カール大帝はかつて、「もう一つの言語を持つことは、二つ目の魂を持つことだ」と言ったと伝えられています。 外国語を学ぶということは、単に文法ルールや単語を暗記してコミュニケーションの道具を手に入れるというだけでなく、それまで見えなかった色の違いに気づき、新しい時間の流れを感じ、別の角度から世界を切り取るための「新しい視力」を手に入れるという、極めてエキサイティングな体験なのです。
※本記事では英語版も参考にしました






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