- 「辞書(辞典)」は、人類が世界をどう認識してきたかを示す壮大な記録です。
- 世界最古の辞書と言われているのは、紀元前2300年頃の古代メソポタミアで見つかった粘土板の二言語辞典(シュメール語・アッカド語)です。
- 英語の辞書に正式に掲載されている「最も長い単語」はなんと45文字。ある病気の名前ですが、実はパズル愛好家が作った造語が定着したという奇妙な歴史を持っています。
- 一つの新しい言葉が辞書に載るまでには、編集者たちが膨大な文章の中から「生きた用例」を採集し、何年もかけて会議を繰り返すという、気の遠くなるようなプロセスが存在します。
- 過去には、編集者のミスによって存在しないはずの言葉が辞書に載ってしまった「幽霊語(ゴースト・ワード)」という珍事も起きています。
スマートフォンの検索窓に言葉を打ち込めば、一瞬で意味がわかる現代。私たちはすっかり「辞書を引く」という行為から遠ざかってしまいました。分厚くて、薄い紙がみっちり詰まっていて、独特のインクの匂いがするあの本を、最後に開いたのはいつでしょうか。
しかし、辞書はただの「意味を調べるためのツール」ではありません。そこには、一つの言葉が生まれ、人々の間で使われ、やがて「正式な言葉」として認められるまでの、途方もないドラマが詰まっています。
誰が一番最初に辞書を作ろうと思い立ったのか。新語はどうやって辞書に選ばれるのか。そして、辞書がうっかりついてしまった「嘘」とは……?
今回は、私たちが普段何気なく使っている「辞書」という存在にスポットライトを当て、その奥深くて少しユーモラスな歴史と裏側の世界を覗いてみましょう。
人類はいつから辞書を作ったのか?:最古の辞書の正体
「知らない言葉をまとめておこう」という人間の欲求は、文字の発明とほぼ同時に生まれました。
現在、世界最古の辞書とされているのは、中東のシリアにあるエブラ遺跡で発掘された紀元前2300年頃の粘土板です。これには、古代のシュメール語とエブラ語(アッカド語の一種)の単語が対になって刻まれていました。つまり、人類初の辞書は「国語辞典」ではなく、異なる言語の商人がやり取りするための「バイリンガル辞典(対訳辞書)」だったのです。
一方、東洋に目を向けると、紀元前3世紀頃の中国で編纂された『爾雅(じが)』という書物が、現存する最古の類語辞典として知られています。言葉を意味ごとに分類し、説明を加えた画期的なものでした。
ヨーロッパにおいて、私たちが知るような近代的な辞書の形を決定づけたのは、18世紀のイギリス人、サミュエル・ジョンソンです。彼はたった数人の助手とともに、9年の歳月をかけて『英語辞典(A Dictionary of the English Language)』(1755年)を完成させました。彼の辞書には、単語の意味だけでなく、シェイクスピアなどの著名な文学作品から引用された「用例」が豊富に掲載されており、これが後世の辞書編纂のスタンダードとなったのです。
辞書に載っている「最も長い単語」の秘密
辞書をめくっていて、「一体誰がこんな長い言葉を使うんだ?」と驚いたことはありませんか? 英語の主要な辞書(オックスフォード英語辞典など)に掲載されている、実用的な(地名などを除く)最も長い単語は、なんと45文字もあります。
Pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis
発音するだけで舌を噛みそうですが、日本語に訳すと「超微視的珪酸塩火山塵肺疾患(ちょうびしてきけいさんえんかざんじんはいしっかん)」。火山の灰などの微細なチリを吸い込むことで起きる肺の病気のことです。
しかし、この言葉にはちょっとした裏話があります。実はこれ、医学界で自然発生した言葉ではなく、1935年にパズル愛好家協会の会長が
英語で最も長い単語を作ってやろう
と、いくつかのラテン語やギリシャ語のパーツをくっつけて意図的にでっち上げた造語なのです。 それが面白おかしく取り上げられ、クイズや言葉遊びの中で実際に使われるようになった結果、辞書編集者たちも「人々が使っている以上、載せないわけにはいかない」と判断し、正式に辞書に収録されることになりました。言葉の成り立ちの不思議さを象徴するエピソードですね。
言葉はどうやって「辞書に載る」のか?:編集者たちの果てしない戦い
毎年、「今年の流行語」が発表されると、SNSなどでは「こんな言葉、来年には誰も使ってないよ」と冷ややかな声が上がることがあります。辞書の編集者たちも、まさにその「一時的な流行り」か「定着する言葉」かを見極めるために、日々途方もない戦いを繰り広げています。
ある新しい言葉が辞書に載るまでには、厳しいオーディションのようなプロセスがあります。
- 用例採集(言葉のハンティング)
編集者たちは、新聞、雑誌、小説、テレビ番組、そして最近ではインターネットの書き込みやSNSに至るまで、あらゆるメディアに目を光らせています。「おや、この言葉は新しいな」「従来の言葉に新しい意味が加わっているな」と気づいたら、その言葉がいつ、誰によって、どんな文脈で使われたかを示す「用例カード(現在はデータベース)」を作成します。 - 寝かせる(定着の確認)
集めた新語をすぐに辞書に載せるわけではありません。「タピる」や「ぴえん」のような言葉が、数年後にも日常的に使われているか、それとも一部の世代だけのブームで終わるのかを数年単位で観察します。一時的な流行語は、改訂のタイミングで容赦なく切り捨てられます。 - 語釈(意味の執筆)と会議
「これはすっかり日本語(あるいは英語)として定着した」と判断された言葉だけが、会議にかけられます。そして、その言葉の意味を、誰が読んでも誤解のないように、限られた文字数で簡潔に書き表す(語釈を書く)という、職人技が求められます。
辞書に載るということは、その言葉が社会から「正式な言葉として市民権を得た」という証明書をもらうようなものなのです。
辞書がついてしまった「嘘」:幽霊語(Ghost word)の悲喜こもごも
どんなに優秀な編集者が目を光らせていても、人間が作るものである以上、ミスは起こります。その結果、「この世に存在しないはずの言葉」が、何食わぬ顔で辞書に載ってしまうという珍事が歴史上何度も起きています。これを言語学では「幽霊語(ゴースト・ワード)」と呼びます。
最も有名な幽霊語の事件は、1934年に発行された権威ある『ウェブスター新国際辞典』で起きました。その辞書には、「Dord(ドード)」という単語が載っており、意味は「物理学や化学における『密度(Density)』」と書かれていました。
しかし、物理学者に聞いても誰もそんな単語は知りません。数年後、編集部が調査して発覚した真実は、あまりにもお粗末なものでした。
もともと、ある編集者が「密度(Density)の略語は、大文字の D または小文字の d である」という意味で、
D or d
というメモを書きました。それを別のスタッフが、スペースを見落として「Dordという一つの新しい単語なんだな!」と勘違いし、そのまま辞書に収録してしまったのです。
この「Dord」は、幽霊語だと発覚して削除されるまでの約5年間、堂々と辞書の中に棲みついていました。完璧であるはずの辞書の、なんとも人間くさい愛すべき失敗談です。
まとめ
古代の粘土板から始まり、現代の分厚い紙の束、そしてデジタルデータへと姿を変えてきた辞書。
そこには、「言葉の意味を正しく定義したい」という学者たちの執念と、日々生まれ、変化し、消えていく言葉たちのダイナミックな命の営みが刻まれています。辞書は決して「完成されたルールの塊」ではありません。私たちが新しい言葉を作り出し、使い続ける限り、辞書もまた呼吸をするようにアップデートされ続ける「生き物」なのです。
今度、ふと分からない言葉に出会ったとき、あるいは暇つぶしでも構いません。久しぶりに紙の辞書をパラパラと適当にめくってみてください。そこには、あなたの知らない「言葉のドラマ」が、ひっそりと出番を待っているはずです。
※本記事では英語版も参考にしました





コメント